山口地蔵堂|市原市山口にある寺院

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山口地蔵堂|全国一大きい木造の地蔵菩薩坐像

山口地蔵堂の概要

市原市山口にある寺院の山口地蔵堂は、かつて音信山光明寺が音信山にあった際には本尊とされていた木造地蔵菩薩座像を守るため、音信山光明寺が山口村に供養料を支払って安置した地蔵堂です。その後後背した地蔵堂・地蔵尊を守るため、県の補助を得て、山口地区民の協力により護持されています。本尊の木造地蔵菩薩座像は、像高は2.75mあり、木造の地蔵菩薩坐像では全国一大きいと言われる地蔵尊で、音信山光明寺が音信山から池和田へ移転する際に、養老川を渡して移動させることができず、当地に置いていったものと伝えられています。

山口地蔵堂
山口地蔵堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 地蔵堂
本尊 木造地蔵菩薩坐像
住所 市原市山口270-1
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



山口地蔵堂の縁起

山口地蔵堂は、かつて音信山光明寺が音信山にあった際には本尊とされていた木造地蔵菩薩座像を守るため、音信山光明寺が山口村に供養料を支払って安置した地蔵堂です。その後後背した地蔵堂・地蔵尊を守るため、県の補助を得て、山口地区民の協力により護持されています。本尊の木造地蔵菩薩座像は、像高は2.75mあり、木造の地蔵菩薩坐像では全国一大きいと言われる地蔵尊で、音信山光明寺が音信山から池和田へ移転する際に、養老川を渡して移動させることができず、当地に置いていったものと伝えられています。

境内掲示による山口地蔵堂の縁起

県指定文化財日本一大きな山口の木造地蔵菩薩座像
平安時代後期から鎌倉時代にかけて相次ぐ戦乱、天変地異、飢饉が相次ぎ、現代人には想像もつかないほど当時の人々は末法の世の到来と地獄に落ちる不安と恐怖におののいていたのです。なかでも戦陣における殺生罪による地獄への恐れと所領の安堵、一族の繁栄を最大の関心とする新興の武士階級にとって、だれでも差別なく地獄から救ってくれる地蔵菩薩は最も頼りとする仏でありました。像高二・七五メートルという木造地蔵菩薩座像としては日本一大きい山口の地蔵はそのような時代を背景にして造られたものであります。
池和田の光明寺(天台宗)は昔は山口の西北に連なる音信山にあり、この地蔵尊は光明寺縁起を見ますと元は光明寺の本尊であったと推定されます。その後、時期は不明ですが光明寺は池和田に移転するのですが、その時、地蔵尊のあまりの大きさに養老川を渡れず、ふもとの山口村に置いていったものと伝えられています。江戸時代にはこの地蔵菩薩の供養料として光明寺から下田二反を山口村に差し出した記録があるので、昔は光明寺の管理下にあったと思われます。沙石集という鎌倉時代の書物に高滝の地蔵とその娘が熊野詣を行った物語が載っています。この物語を、そのまま信ずることはできませんが、山口地蔵のような立派な仏像を安置する大寺院があったと云うことは、この物語のような勢力ある人物が高滝近辺に居た証拠であります。
この像を安置した元のお堂は大正六年九月三十日の深夜、大暴風雨により倒壊し、その後三間×四間のお堂が再建されましたが屋根は茅葺きのことで時には手入れが行き届かず雨漏りすることが少なからずあったそうです。昭和六年頃、ある有力がブローカーが乗り込み買収すべく画策しましたが良識ある村民の猛反発にあって、この像が辛くも守られたこともありました。
戦後、世の中も落ち着いた昭和三十六年、あまりにも荒廃したお堂と地蔵菩薩座像を守ろうとする機運が盛り上がり、当時の小野田栄一村長に相談しました、小野田村長は早速、八幡の菅野儀作県議を通じて県教育委員会に陳情し、菅野県議の配慮もあり昭和三十七年、それまで一割だった県の補助を五割に改正、復元修理が行われましたが、これを契機に県下の文化財の修理が促進されることになったそうです。
しかし県費百二十万円の補助があるとはいえ当時、加茂村二十五パーセント山口二十五パーセントの負担は容易ではなく山口地区内は勿論、東京などに居住する山口出身者にも協力を呼びかけ地区一丸となって運動し無事予定の資金を集めることができました。
県では京都の国宝修理員が茨城県水戸に出張の機会をとらえて修理を依頼し像を水戸に運んで約一ヶ年かけて復元修理を行いました。その間鉄筋コンクリートの保存庫も建設し、像も県文化財に指定され昭和三十七年十一月十四日、盛大な開眼供養が行われました。その後、昭和五十四年、像の台座のコンクリートにひび割れが見つかり町会長は地元選出の小野田栄一県議を通じて陳情し総工費百万円の予算を得ました。そこで町会役員関係者で大多喜の県立総南博物館まで地蔵菩薩座像を解体運搬し仮安置し、その後台座修理が行われました。
像は後世の手が加えられ面長になったという説があります。造像当初は御体の部分は金箔がはられ、衣の部分は彩色がほどこされていました。大きく張った膝、ぐっと深く彫られた衣のひだ、力感あふれる鎌倉時代後期の作品であります。(山口地蔵管理委員会掲示より)


山口地蔵堂所蔵の文化財

  • 木造地蔵菩薩坐像(千葉県指定文化財)

木造地蔵菩薩坐像

像高は二・七五メートルもあり、木造の地蔵菩薩坐像では全国一大きいと言われています。
左手に宝珠をとり、右手には錫杖を持つ。その錫杖をついて歩き廻り、民衆の苦しみを救う姿を表わしています。材質はヒノキ材の寄木造りで、彫眼、首の部分は二道を刻んでいます。頭・顔・胸・手など肌の部分は漆箔で、衣や膝前などは彩色がほどこされています。顔だちは、後世の手が加わって室町時代以降に見られる面長の顔となったと思われますが、体の奥行も深く、膝も広く張っていて堂々たる姿です。
製作年代は、衣のひだの彫が深いこと、また体部の特徴から、鎌倉時代と考えられています。
この像と並ぶ大きさの地蔵菩薩は、和歌山県有田郡湯浅町勝楽寺に所在しており、国の重要文化財に指定されています。(市原市教育委員会掲示より)

山口地蔵堂の周辺図


参考資料

  • 「市原郡誌」