医王山国分寺|聖武天皇勅願の上総国分寺
国分寺の概要
市原市惣社にある真言宗豊山派寺院の国分寺は、医王山清浄院と号します。国分寺は、聖武天皇の勅願により各国に建立された国分寺の一つで、当寺は上総国の国分寺として天平9年(737)に七堂伽藍が整えられたとされます。平将門の乱(承平天慶の乱)に際して兵火に罹り焼失、その後荒廃していたものを、僧侶快応が再建を図り正徳4年(1714)落成しています。境内は国分寺跡として国史跡に指定されている他、薬師堂や仁王門金剛力士像は市有形文化財に指定されています。上総八十八ヶ所霊場80番、市原郡八十八ヶ所霊場80番です。
山号 | 医王山 |
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院号 | 清浄院 |
寺号 | 国分寺 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 市原市惣社1-7-23 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
国分寺の縁起
国分寺は、聖武天皇の勅願により各国に建立された国分寺の一つで、当寺は上総国の国分寺として天平9年(737)に七堂伽藍が整えられたとされます。平将門の乱(承平天慶の乱)に際して兵火に罹り焼失、その後荒廃していたものを、僧侶快応が再建を図り正徳4年(1714)落成しています。境内は国分寺跡として国史跡に指定されている他、薬師堂や仁王門金剛力士像は市有形文化財に指定されています。
「市原市史」による国分寺の縁起
天平九年(七三七)勅願寺、七堂伽藍完備。天慶三年(九四〇)平将門追討の時、賊の占拠するところとなり、官軍火を放って攻め焼失した。以後七百四十年余廃滅していたのを元禄年中、僧快応再建を謀って正徳四年(一七一四)落成した。東方一〇〇メートルに七重塔址があって土台石が残っている。近年僧寺尼寺ともに寺址の発掘によってその規模の全貌がほぼ明らかになってきた。国分寺跡は国の史蹟に指定されている。(「市原市史」より)
「市原郡誌」による国分寺の縁起
醫王山清浄院國分寺
本村惣社字堂前に在りて豊山派眞言宗に屬し行基の開山場となす、天平九丙寅年聖武天皇勅立寛永十年(皇紀二二九三年)惣社字蔵の上に有りし清浄院を合併し村上村觀音寺末寺と成ると、本堂薬師堂庫裡二王門あり、舊跡五重寶塔の跡には土臺石と布目瓦の破片の散財するを見る、寺域惣社區の西北部に位し松椎等の老木鬱然たり、二王門を入れば名高き公孫樹あり、左折して本堂に詣づ、七堂伽藍のありしてふ其のかみを追想すれば轉た今昔の威なくんばあらず、而して五重の塔の堂跡は境内東方約一町の畑中なりといふ、境内及其附近には布目の瓦あり、千餘年前のものなるべし、薬師堂に安置せる薬師如来は弘法大師の作なりと傳ふ、本堂の東隅にある二本の枝接續せる椎の木は世人之を夫婦木と稱す、この木に祈らば良縁を得といふ、参詣者あり。(市原村誌)
<沙門快宥の文省略>
(大日本辭書云)今惣社にあり、眞言宗たり、本尊薬師如来寺傳に云ふ、天慶三年平将門追討の時其叛黨伽藍に據り官軍襲ひて遂に兵燹にかゝり其後假りに造營し、元禄年中僧快應心を再建に盡し、正徳六年冬成る今の殿堂之なりと、按ずるに現今の堂宇は平坦方二町餘の中央にあり、其地概して寺跡を云へり、布目瓦の摩滅せしもの悉く畑中に埋没し、又古寺の礎石所々に殘れり(町村誌)(地理志料に云)惣社村有國分寺、敗瓦殘礎、散布一邑、延喜制、充正税四萬束、其盛可思、(更科日記に云)国府の條に「人末には参りつゝ額をつきし薬師佛」とは必定この國分寺なり。(「市原郡誌」より)
国分寺所蔵の文化財
- 国分寺薬師堂附厨子(市原市指定文化財)
- 木造金剛力士像(市原市指定文化財)
- 将門塔(宝篋印塔)一基(市原市指定文化財)
- 史跡上総国分寺跡(国指定史跡)
- 西門跡
国分寺薬師堂附厨子
国分寺薬師堂は、桁行三間・梁間三間のいわゆる三間堂といわれる形式で、正面に一間の向拝(庇)が設けられています。また、周囲には、高欄を付ける切目縁がめぐります。屋根は、茅葺の入母屋造で、建物内部には、内陣天井に植物文様の絵、外陣に竜及び飛天が描かれています。
また、内陣の須弥壇に於かれた厨子は、手の込んだ唐様に作られ、金・朱・緑の彩色が施されています。
清浄院国分寺に伝わる縁起によれば、元禄年中、当地に移り住んだ僧快應が寺の荒廃を憂い、一念発起して、建立の計画を立て、浄財を募るなど、再建に向けて尽力したことが知られていましたが、平成三年の薬師堂解体修理の際、建築部材の一部から、快應の名をしるした墨書が発見され、縁起の信憑性の高いことが、裏付けられました。
また、建築に携わった大工などの名前や出身地名などの墨書も発見され、建築は、惣社村の大工小三郎や有吉村(現千葉市)の伝三郎、五井村の半三郎など、彫刻等は飯櫃村(現芝山町)の秋葉大治右衛門為久、牛熊村(現横芝光町)の松岡貞右衛門常久等の工匠により行われ、享保元年(一七一六)に完成したことが分かりました。(境内掲示より)
木造金剛力士像
金剛力士は仏法の守護神として、阿吽一対の二像が寺の紋や須弥壇に安置され、二王(仁王)とも呼ばれました。本草は、西面して建つ国分寺仁王門の左右に安置されている一対の金剛力士像です。市内に現存する中世の金剛力士像は皆吉にある橘禅寺の木造金剛力士像(千葉県指定文化財)と当阿形像のみです。
像高は、阿形が二.一四五メートル、吽形が二.二〇五メートルで、共に針葉樹材の寄木造りです。阿形像は、動きのある体勢と表情に迫力と重厚さを保ちつつも、鎌倉時代前期の金剛力士像に比べると筋肉や衣文の彫り方がおさえ目である点などから、一三世紀末頃から一四世紀前半にかかる頃の作と見られます。残念ながら頭部は江戸時代初期の補作ですが、本像はしないのみならず、房総の仏教彫刻史上重要な位置を占める秀作です。また中世の上総国分寺の歴史を考える上でもかけがえのない歴史資料です。
吽形像は、江戸時代後期(寛政十二年頃か)の作で、全体の彫り方の形骸化は免れませんが、その寄木構造は阿形像の特殊な造りにならっており、学術的にも貴重です。旧像にならう江戸時代の再興像として、阿形像と一揃いの二王像としての価値があり、附として一緒に指定いたしました。
なお本像は、平成十六年、寺と檀家有志の努力で復元修理され、当時の躍動感あふれる造形美がよみがえりました。(市原市教育委員会掲示より)
将門塔(宝篋印塔)一基
将門塔は、もと菊間新皇塚古墳の墳丘上に存在し、「将門の墓」として伝承されてきた。しかし、塔身には応安第五壬子十二月三日の銘が刻まれ、将門の命日、天慶三年二月一四日と違い、さらに塔の型式も南北朝時代と考えられ、将門と結びつく点はない。
石質は、凝灰岩で、総高約一・五〇メートル、基壇部の側面に二区の輪郭があり、複弁反花座は彫りが深い。その上の基礎表面には輪廓が二区存する。塔身は損耗が激しく、四面に種子を刻んだと思われるが、正面の「アク」の梵字が判読出来るに過ぎない。隅飾りは、外側の直線が笠部の底辺に対して直立し、内側の弧線は二弧線となっている。相輪は紛失して無い。(市原市教育委員会掲示より)
史跡上総国分寺跡
国指定史跡上総国分寺跡は、市原が古代上総国の政治・文化の中心であったことを象徴する歴史的文化遺産です。
上総国分寺(僧寺)は、寺域が12.9万㎡におよぶ、武蔵国、下野国に継ぐ規模を誇る代表的な国分寺でした。寺域のやや南西よりの南北219m、東西194mの範囲に塀をめぐらし、伽藍を配置していました。伽藍配置は、南大門・中門・金堂・講堂が南北に並び、七重塔は、回廊に囲まれた金堂前庭の東側に配置しているのが特色です。藤原京の大官大寺に類似しています。
伽藍地の北東には政所院(東院と呼ばれていた可能性があります)、北西には薗院、南には花苑などの付属施設が配置されていました。ほかに講院・綱所・経所・油菜所・厩などの施設が置かれていたことが、出土した墨書土器から推測されます。(境内掲示より)
西門跡
西門は、金堂と講堂のあいだの西方に位置し、伽藍地の西側の塀に開いていた門です。平成2年3月の調査で間口3間10.8m(36尺、10+16+10)、奥行2間5.7m(19尺、9.5+9.5)の三間一戸の八脚門であったことが分かりました。
柱は直径約50cmの掘立柱で、一度建て替えられていました。また、西門が建てられる前に、南北5間12m、東西3間6.75mの掘立柱建物が建っていたことも分かりました。
西門跡については、平成5年度に位置や規模が分かるように整備しました。柱の間に[専に瓦:せん]を並べたところは、壁であったことを示しています。(境内掲示より)
国分寺の周辺図
参考資料
- 「市原市史」
- 「市原郡誌」