大野駒形大神社|市川市大野町の神社
大野駒形大神社の概要
大野駒形大神社は、市川市大野にある神社です。大野駒形大神社の創建年代等は不詳ながら、平将門が城を築いた地と伝わる字殿台に鎮座、(香取神宮の祭神)経津主命を主祭神として、平将門を併祀しています。明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。
社号 | 駒形神社 |
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祭神 | 経津主命 |
相殿 | 平将門 |
境内社 | 御霊神社、殿台天満宮、根本明神、崇随礼神、姫宮大神社、大権現、山王神社、稲荷大明神、雷神宮、道六神 |
住所 | 千葉県市川市大野町4-2757 |
祭日 | 例祭日10月20日、御奉射1月20日 |
備考 | 旧村社 |
大野駒形大神社の由緒
大野駒形大神社の創建年代等は不詳ながら、平将門が城を築いた地と伝わる字殿台に鎮座、(香取神宮の祭神)経津主命を主祭神として、平将門を併祀しています。明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。大野天満天神宮は平将門が天慶元年(938)創建したと伝わることから、当社もそうした流れの中で創建されたものかとも思われます。
「千葉県神社名鑑」による大野駒形大神社の由緒
由緒に関する記載なし(「千葉県神社名鑑」より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による大野駒形大神社の由緒
(大柏村誌)
駒形神社、大野にあり、經津主命平将門を併祀せり。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
境内社御霊神社について
祭神鎌倉権五郎景政公
例祭日十一月二十三日
由緒 元禄年間、本光寺勧請の印あり。もとは殿台(大野四丁目)の西部に鎮座。明治四十一年、当境内に遷座。平成十年、氏子中現在の地に社を造営し遷座する(一説には『平将門公』を祀るともいわれる)。
景政公は、桓武天皇の末裔、平氏の一門で鎌倉党の頭領。十六歳にして源義家公に従い、後三年の役に出陣。戦闘中、右目に矢を射こまれ、その矢を抜かずして、射て来た敵将を『答の矢』(敵に射返す矢)で、倒したという豪傑。更に、この矢を抜こうとした三浦平太為次公が、靴を履いたまま顔を踏みつけたので「弓矢に当って死するは武士の本望、なのに土足をもって面部を踏むとはなにごと」と叱咤。爲次公は無礼をわびて、膝で押さえ抜いたと言う。人々これを見聞し、景政公の功名いよいよ高し・・・と『奥州後三年記』にある。
世に伝わる御霊信仰とは違い、景政公と言う英雄豪傑の武勇と廉恥の心を慕い、合わせて徐災招福を願う人々の心が、この地に御礼神社を創設させてものである。
願わくば、英雄の御魂、永久にこの地に鎮まって、我らを守り導き給わらんことを。(境内掲示より)
大野駒形大神社所蔵の文化財
- 駒形大神社の御奉謝(市川市指定民俗文化財)
御奉謝
駒形大神社と御奉謝
駒形大神社は経津主神を主神に、大野の地域に伝説として残っている。平将門を合祀した神社です。
この、駒形大神社には、古くから五穀豊穣と村内安全を祈願する御奉謝の行事が伝えられています。かつては一月十九日、当番宿に集まった氏子たちによって、神社に飾る注連縄がつくられ、次に三臼の餅がつかれました。
最初の一臼は供物の下に敷く、経五寸(15cm)ばかりの煎餅をつくり、二臼目は烏帽子型兜・擬宝珠型兜・皿頭型兜の型をした供物をつくります。三臼目の餅は集まった氏子たちが、互いに投げあう餅ぶつけに使います。餅に当たるとその歳の厄を払うといい、またこの餅は、風邪除けに効き目があるともいわれています。これで一日目の行事は終わりです。
二十日は前日用意した供物・注連縄・酒肴等を捧げて神社に参拝、太鼓を打ち鳴らして題目を唱え、終わって御神酒を頂き、当番宿に引きあげます。このあと、宿では二組に分かれて行事役を中央に、両組から一人ずつ出て向い合い、互いににらみ合って行事役の合図をまち酒を呑みあいます。このとき笑った方が負けとなり、さらに大盃につがれた酒を呑むことになります。こうした行事のあるところから、俗に「にらめっこおびしゃ」の異名が付けられています。
これらの行事は安政六年(1859)の記録を、明治十一年(1878)に書き写したものによって踏襲されてきましたが、太平洋戦争後は一月二十日の一日で、総ての行事を済ませるように改められ、毎年、神社の社務所で行われています。この行事は昭和四十年、市の民俗文化財に指定されています。(市川市教育委員会掲示より)
大野駒形大神社の周辺図