愛宕山圓林寺|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場
圓林寺の概要
天台宗寺院の圓林寺は、愛宕山金蔵院と号します。圓林寺の創建年代等は不詳ながら、千葉氏一族の金山砦の一角に当寺が存在することから、中世前期(鎌倉時代頃)の創建と推定されています。戦国時代には戦乱に巻き込まれたと思われ詳細不明ながら、本堂右手には釈迦堂があったとも伝えられます。平成3年面目を一新しています。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場5・35番です。
山号 | 愛宕山 |
---|---|
院号 | 金蔵院 |
寺号 | 圓林寺 |
住所 | 千葉県柏市金山492 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
圓林寺の縁起
圓林寺の創建年代等は不詳ながら、千葉氏一族の金山砦の一角に当寺が存在することから、中世前期(鎌倉時代頃)の創建と推定されています。戦国時代には戦乱に巻き込まれたと思われ詳細不明ながら、本堂右手には釈迦堂があったとも伝えられます。平成3年面目を一新しています。
境内石碑による圓林寺の縁起
天台宗愛宕山金蔵院圓林寺
当山は沼南町金山字根古四九二番地に阿阿彌陀如来を本尊とする天台宗の寺院であるが、創建、由緒は不詳。然しながら寺域付近の地形から推察すれば中世期前、千葉氏一族の金山砦の一角に当寺が存在するところから度々の兵乱によって堂宇古記録等の一切を焼失。その後も火災により江戸中期に仮本堂を建立した。当山開創は中世前期と推定される。
山号「愛宕山」は江戸期に地區内の愛宕神社祭神を神佛習合思想によって堂内に合祀されたことが因となって称された。愛宕山とは江戸芝の愛宕山に徳川家康が勝軍地蔵を安置し愛宕大権現として武人は武運と戦勝を、庶民は竈神として火伏せの祈願をした。当區愛宕祭神は江戸より勧請と推測される。
本堂は江戸中期に民家を移築本堂に改築されたものと思われるが堂内内陣の欄間は鳳凰と孔雀の精巧な彫刻で裏に宝暦七年十二月大吉日現住惠海代(世代不詳)尾州の住人の作或は修復と読みとれる。また山門も江戸中期で総欅造り兩袖付天井張りであったが昭和五十八年七月の降雹龍巻により倒壊したが檀徒の協力によって復元した。本堂右手高台に釈迦堂跡がある。本尊釈迦如来像は本堂内に合祀現存している。
從来の本堂は仮堂のため老朽化はげしく維持困難となり檀徒相集まり先代住職叡信ともども協議の結果新築を決議した。然し無禄寺院のため費用一切を檀徒に委ねることとなった。檀徒は金山區四十一名、今井區二十名によって浄財及び地區内の欅の殆どを用材として寄進された。加えて発願から落成までの五年有余その間の労力奉仕等物心両面の協力を得て完成したのである。
時恰も傳教大師が比叡山開創千二百年に發願、宗祖大師の忘己利他の精神に則り檀徒一丸となりこの大業を円成したものである。(境内石碑より)
「沼南町史」による圓林寺の縁起
当寺は金山地区のほぼ中央に当たる正陵上に位置し、低い道路を隔てて鳥見神社の境内に隣接している。この低い道路は、東西に走る道路から直角に生じて北方に向かうが、この三叉路によって寺社の境内が二分される地形は珍しく、歴史的にその密接な関係を示唆するものである。
現に、当寺では愛宕神社の祭神を本堂内に祀り、「愛宕山」の山号をもっているが、その祭りは鳥見神社で行われている。また、供養塔・記念碑の類は、神仏を問わず大半が神社の境内に建立されていることなどからも、地区の住民にとっては社寺一体的な信仰が古い歴史をもっていることが知られる。
当寺の創建は不詳である。何度も戦火や火災に遭ったため、古記録等は伝えられていない。本寺の泉倉寺でも詳しいことは判明しない。ただし、泉倉寺は下総地方きつての天台宗の古利であり、円林寺は前住職の青木覚淳師までで四十三代を数えること、境内墓地には中世の板碑が存在することなどから、その創建はおそらく中世前期ごろまでは遡りうるものと推定される。
ところが、この寺域の辺りは、戦国期には千葉氏一族の砦の一部であったといわれている。なるほど、地形的には三方の低地を見おろす高台であり、特に東方は水田を隔てて白井町方面を遠望できる天然の勝地であるから、この伝承は事実であろう。したがって、戦国末期には当寺も兵乱に巻きこまれ、大きな変遷をとげたものと思われる。
本堂内には、江戸初期の院殿居士号の位牌二基を祀る。一基は元禄五(一六九二)年三月二十七日没と刻まれているから、江戸初期には大檀越の帰依をうけて伽藍の複興などがなされたことを思わしめる。
境内は、南側の道路から石段を登った上に山門があり、正面に本堂がある。山門は総欅造りで両袖付き天井張りの江戸期の建物であり、本堂は江戸中期ごろに他の建物を払い下げて用いたものといわれる。内陣の欄間には鳳凰と孔雀の精巧な彫刻がみられる。もと茅葺きであったが、昭和四十六年五月にこれを鉄板で覆った。
境内向かって右手の高台には、かつて釈迦堂が存したという。現在ここを”釈迦堂跡”と呼んでいるが、詳しいことは知られない。本堂内に現存する厨子入りの釈迦如来像が、かつてこの堂宇の本尊であったものと思料される。(「沼南町史」より)
圓林寺の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」