東福山如意寺|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場
如意寺の概要
真言宗豊山派寺院の如意寺は、東福山と号します。如意寺の創建年代等は不詳ながら、永暦2年(1161)の創建とも、また元和6年(1620)に法如が開山したとも伝えられます。江戸時代末期には、薬師堂や本堂が再建されたものの、明治20年に火災により焼失、本堂は明治23年に再建したといいます。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場15・59・81番、下総四郡八十八所霊場81番、下総三十三ヶ所観音霊場13番です。
山号 | 東福山 |
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院号 | - |
寺号 | 如意寺 |
住所 | 千葉県柏市箕輪62 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
如意寺の縁起
如意寺の創建年代等は不詳ながら、永暦2年(1161)の創建とも、また元和6年(1620)に法如が開山したとも伝えられます。江戸時代末期には、薬師堂や本堂が再建されたものの、明治20年に火災により焼失、本堂は明治23年に再建したといいます。
「沼南町史」による如意寺の縁起
当寺は高台に位置し、境内は南北に走る道路に向かって東面している。創建などについては、明治期の火災で焼失を免れた過去帳の記載によって知られる。
すなわち、当寺の創立は平安時代末期の永暦二(一一六一)年とされる。その後、中世末の戦国期には当所が戸張弾正の家老職である高城伊勢守の所領となり、五カ所の墓所とニカ所の堂地があった。墓は坊山土佐守と豊後守の馬場で、厄除けの廟所とされていたという。また、江戸初期の天和年中(一六八一~四)までは、当寺の檀家は八軒だけであったが、それ以後は大島田の五名が加わった。同時期に山伏が僧侶に斎を施した。こうして、享保十六(一七三一)年までに当寺は開山以来四十一代になる、という。この歴代住持の名前も、別に列記されている。
ところが、当寺の本寺である松戸市大谷口の大勝院は、大谷口城主高城氏の帰依を受け、永正三(一五〇六)年の創立である。また大正末期の『寺院明細台帳』の記載には、如意寺は開上法如による元和六(一六ニ〇)年三月の創立とある。もともと箕輪地区は戸数が少なかったが、戦国期には高城氏が城郭を構築している。過去帳にある坊山土佐守の馬場とは、現在字酉内の山林内に”馬乗り馬場”と称する地域を指すといわれる。こうしてみると、当寺は古代に創始されたものの、中世末期になって高城氏族の帰依を受けてから、真言宗豊山派の寺院として大勝院の末寺に配せられたのであろう。このことは、大谷口城の高城氏と箕輪城の高城氏との関係を知る上で、重要な視点となるものである。
また、江戸初期に檀家が増加し、山伏から帰依を受けたという天和年中(一六八一~)は、ちょうど後述する大日如来が当地区の大日宮に奉祀された延宝六(一六七八)年の直後に当たる。こうした事実は、修験道とみられる大日宮と当寺との交渉を示す興味ある史料であろう。
下って、江戸末期の天保六(一八三五)年六月、源国によって法流開基が公認され、嘉永五(一八五二)年には薬師堂(三間半×三間)が、文久四(一八六四)年には本堂がそれぞれ再建されている。しかし、間もなく明治二十(一八八七)年の火災によって全焼したので、三年後の明治二十三年にふたたび再建したのが現在の堂宇である。本堂と庫裡が同棟の特徴ある造りで、大間や内陣の格天井には岩井の龍光院のそれと同じく、近隣諸村の旧家の家紋が多数描かれ、浄財の勧募に苦心を払ったことを物語っている。(「沼南町史」より)
如意寺の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」