教永山福満寺|平将門の家臣坂巻若狭守の守本尊
福満寺の概要
天台宗寺院の福満寺は、教永山積善院と号します。福満寺は、奈良時代に開創、桓武天皇(781-806)の代に、権大僧都尊慶が天台宗寺院として開山したと伝えられます。平将門の家臣坂巻若狭守の守本尊といわれる聖観音は、当寺のたびたびの火災にも焼失を免れたことから”火伏せの観音”と称されて下総三十三ヶ所観音霊場14番となっている他、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場7・54番をはじめ数多くの諸堂を奉安、また関東九十一薬師霊場79番、かしわ七福神の布袋尊となっています。
山号 | 教永山 |
---|---|
院号 | 積善院 |
寺号 | 福満寺 |
住所 | 千葉県柏市大井1708 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
- 福満寺鐘楼堂
- 福満寺本堂
- 福満寺元三大師堂
- 福満寺観音堂
- 福満寺弁天堂
- かしわ七福神布袋尊
- 福満寺平将門大明神
- 子授けの宝子霊石
- 福満寺粟島大明神
- 福満寺金毘羅堂
- 福満寺大師堂
- 福満寺太子堂と大師堂群
- 福満寺倶利伽羅龍王堂
- 福満寺大師堂群
福満寺の縁起
福満寺は、奈良時代に開創、桓武天皇(781-806)の代に、権大僧都尊慶が天台宗寺院として開山したと伝えられます。平将門の家臣坂巻若狭守の守本尊といわれる聖観音は、当寺のたびたびの火災にも焼失を免れたことから”火伏せの観音”と称されて下総三十三ヶ所観音霊場14番となっている他、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場7・54番をはじめ数多くの諸堂を奉安しています。
「沼南町史」による福満寺の縁起
当寺は、北方の手賀沼側から細長く入り込む谷津(字三反田)の上部に位置し、三万を高台に囲まれた窪地に、南北に長い境内を形成する。その最南端の高台には、山内を兼ねた鐘楼堂があり、東側高台の香取神社の境内と隣接している。往時は神社の境内をも含めた数町歩の寺域に、壮麗な伽藍を擁していたといわれる古刹である。
当寺は桓武天皇(七八一~八〇六在位)の代に、権大僧都尊慶による創建と伝えられる。また、旧薬師堂の古棟札の写しには、「承和十一(八四四)年甲子十一月八日下総国相馬郡南相馬ノ庄大井郷別当福満寺」という記載がみられる。したがって、当寺は奈良時代に開創され、平安朝の開宗以後に天台宗の寺院となっていったことが知られる。
以後、一村一カ寺として栄えたが、鎌倉末期に日蓮宗妙照寺が当地に創建されて、村中の三分の一は妙照寺の檀家となった。また、当寺域には多くの板碑が遺存し、中世の存続を知らしめるが、最古の年号を有するものは、延慶三(一三一〇)年十一月建立の弥陀一尊板碑である。すでに6の柳戸弘誓院の項でふれた、文正二(一四六七)年に”福満寺”の銘をもつ古鐘の所属云々がなされるにふさわしい中世の歴史を十分もつわけである。
当寺の歴史は火災の歴史である。戦国期に兵火に遭遇したのち、江戸期には延宝年間(一六七三~八一)と享保年間(一七一六~一三六)に相ついで火災に遭い、堂宇伽藍の多くは灰燼に帰した。特に享保の火災では、古記録の類がすべて失われたという。このために、元文四(一七三九)年四月五日に再興成った諸堂のうち、本堂(八間×五間)、庫裡(八間四尺×六間)、薬師堂(三間×二間半)などの建物は、明治三十六(一九〇三)年の火災でまたもや焼失した。こうして、江戸期の伽藍で現存するものは、観音堂(現本堂)と鐘楼堂のみとなっている。
現在、本堂として使用する旧観音堂は、江戸初期の建立といわれる。小規模ながら三方に回廊と高欄が繞らされ、大間の天井には狩野派の絵師による竜が描かれている。堂中には聖徳太子作と伝えられる聖観音を祀るが、往古は当寺の大檀越であった坂巻若狭守の守本尊であったといわれる。坂巻若狭守は平将門(~九四〇)の家臣で、大井の追花の地に居住し、邸内に観音堂を置いたという。これが後に福満寺の境内(現、香取神社側の高台)に移され、更に江戸期に現在の窪地へ移転した。尊像は度々の火災にも奇跡的に焼失を免れたため、”火伏せの観音”ともいわれている。当寺では秘仏として、住職一代に一回のみ開扉が許されているが、昭和三十一年に専門家がこれを鑑定し、少なくとも一千年以上を経た国宝級の作品の発見と報道されている。この尊像の所在の、ため、当寺は下総三十三ヶ所観音の第十四番の札所となっている。
鐘楼堂は山門風の楼門造りで、高欄が繰らされた二階に梵鐘が吊られている。屋根は方形でもと茅葺きであったが、昭和四十六年八月二十四日、石戸誠一氏の浄財により鉄板葺きに改装された。梵鐘と屋根を支える十二本の柱は、六角削りの欅材である。
享保十四(一七二九)年三月、当寺第十四世恵深代の建立で、棟梁は清左衛門であった。恵深は後に東叡山寛永寺・日光山輪王寺などへ昇住した高徳であるが、福満寺に住して鐘楼のないこどを嘆き、秘仏聖観音を背にして房総三国を巡錫して滞財を募り、ついに大願を成就させたという。梵鐘は同年二月二十五日に大井・五条谷両村檀家の奉納であったが、第二次大戦中に供出し、昭和四十三年春彼岸にふたたび檀中によって奉納された。
薬師堂は、もと字井堀内に承和十一(八四四)年の創建にかかる由緒ある堂宇であるが、延宝の火災で焼失して字古内に移し、寛文十(一六七一)年に再建された。しかし、これも大破したので明治十六(一八八三)年三月に居を境内地に移して改築したが、明治三十六年に焼失し、現在は本尊薬師如来と脇侍が本堂内に合祀されている。
また、当寺には池を繞らし橋を渡した奥に弁天堂の小字を祀る。天保十一(一八四〇)年九月六日の創立で、江戸上野不忍弁財天の分座である。明治十一(一八七八)年五月に藤心村(柏市藤心)の石井宥左衛門が寄進で改築したが、昭和五十ニ年一月十二日に再び建て直された。(「沼南町史」より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による福満寺の縁起
觀音菩薩像 福満寺觀音堂安置
抑々此堂に安置する正観音は聖徳太子の御作にして往古當寺大檀那坂巻若狭守といふは相馬将門の一族にして當所追花と云ふところに居住せり、而して右觀音堂は若狭守居住の地に在りしを其後當時觀音前と云ふところに堂を移し以て本尊を安置す然るに星霜相移り堂宇大破に及び頗る危き形相を極む依て當寺境内に遷し引きて今日に及べり。云々(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
福満寺の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」
- 「千葉縣東葛飾郡誌」