弘誓院|柏市柳戸にある真言宗豊山派寺院

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蓬莱山弘誓院|大同年間創建、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場

弘誓院の概要

真言宗豊山派寺院の弘誓院は、蓬莱山福満寺と号します。弘誓院は、大同年間(806-810)に行基菩薩が自ら刻した聖観音像を奉安して創建、中世には高城下野守胤則・原兵部小輔胤定・相馬弥七郎胤光等の外護により隆盛したものの、天正年間(1573-1592)に火災により焼失、旧本堂は丘上(鐘楼・霊園の地)にあったといいます。聖観音像は常陸国小野崎城主新井治部小輔照信が守り本尊としたとも伝えられ、下総三十三ヶ所観音霊場33番となっている他、大師堂は東葛印旛大師八十八ヶ所霊場83番、下総四郡八十八所霊場83番となっています。

弘誓院
弘誓院の概要
山号 蓬莱山
院号 弘誓院
寺号 福満寺
住所 千葉県柏市柳戸612
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



弘誓院の縁起

弘誓院は、大同年間(806-810)に行基菩薩が自ら刻した聖観音像を奉安して創建、中世には高城下野守胤則・原兵部小輔胤定・相馬弥七郎胤光等の外護により隆盛したものの、天正年間(1573-1592)に火災により焼失、旧本堂は丘上(鐘楼・霊園の地)にあったといいます。聖観音像は常陸国小野崎城主新井治部小輔照信が守り本尊としたとも伝えられ、下総三十三ヶ所観音霊場33番となっている他、大師堂は東葛印旛大師八十八ヶ所霊場83番、下総四郡八十八所霊場83番となっています。

「沼南町史」による弘誓院の縁起

当院は通称”観音谷津”といわれる谷津の最上部に位置し、三方を正陵に囲まれた窪地の境内である。周囲二丈に近い銀杏の双樹などの古木が繁茂する中に、古雅で風格のある本堂、その前方右手に池をめぐらす弁天堂、前面の急な石坂上の鐘楼堂、などの佇いが調和して、古刹特有の静寂幽邃の興趣をかもし出すこと、本町寺院中の白眉である。
当院はたびたびの戦火や火災で古記録は失われているが、天明五(一七八五)年四月の『洪鐘新建募縁録』には、おおむね次の記載がある。すなわち、当院は大同年中(八〇六~一〇)に行基菩薩が伽藍を建立し、自ら一刀三礼して彫刻したのが当院の本尊、聖観音尊像である。星移り年代わって中世には、高城下野守胤則・原兵部小輔胤定・相馬弥七郎胤光等の大檀越が珍宝等を喜捨し、仁王門・鐘楼等を造営したが、戦国期の天正年間(一五七三~九二)に火災に遭い、仏殿諸堂あまねく焼失した。ただ、観音尊像は大杉の枝上に鎮座して災禍を免れた。この天正の火災の際、梵鐘が池に陥落し、それ以来この池を”鐘ケ淵”と称するようになった、と。
右の記事中、天正の火災の時の住持は、興福院の過去帳に記載のある、天正十九(一五九一)年三月二十一日に寂した隆朝の代であろうと思われる。
右のほかに、当院にはなお多くの寺伝がある。まず、境内の小地蔵堂に安置される地蔵尊は、古色蒼然たる全長七尺余の木彫立像で、伝教大師の作と伝えられる。往時は三間四万の堂宇に祀られていたが、連夜子供のいる家を回って慈悲を垂れたという伝説が里人に語られるなど、深く信仰を集めていた。『利根川図志』(一八八五)には、茨城県布川町の旧家新井氏の古文書により、常陸国小野崎城主として一万石を領した新井治部小輔照信(一五八四寂)は、相馬郡柳戸邨観世音菩薩を同家の守本尊としたことを掲載している。このため、布川町徳満寺(真言宗豊山派)の著名な本尊地蔵菩薩(湛慶作、像高七尺三寸)と、当院の地蔵尊との密接な関係が推定されている。
ところで、現在の本堂は旧観音堂であって、旧来の本堂等の諸堂は現在の鐘楼堂が存する前方丘上に配置され、表参道は東西に走っていたという。当院に保管される嘉暦三(一三二八)年、暦応二(一三三九)年、文明四(一四七二)年、同十七(一四八五)年などの年号を有する多くの板碑は、すべてこの台地から出土していることも、これを傍証している。また、鐘楼堂への急坂(五七段)の傍らには、ゆるい傾斜の地形がみられ、正上の堂宇と低地の観音堂とを結ぶ古参道なることを示唆している。さらに、現本堂の向かって右側に位置する熊野神社は、当院境内の一部分をなすような位置関係にあり、当院の山号「逢莱山」が吉野熊野山の異称であることなどから、同神社は元来当院の鎮守のごとき関係にあったことが推察される。
昭和三十八年、本堂の茅葺を銅板に改装したが、その際に本堂屋根裏から発見された法華経の古版木(町指定文化財)は、約五世紀を経過していると推定されている。また、昭和四十五年に東京大手町の高速道路工事現場から出土した古鐘(現在町中央公民館所在)には、「下総国南相馬郡泉郷柳渡福満寺文正二年」と刻銘され、文正二(一四六七)年当時、当院か大井の福満寺のいずれかに寄進された古鐘であるが、いずれにせよ、当院の由緒を傍証する話題である。
現在の本堂は、寛永四(一六二七)年の再建といわれる。しかし、祐実(享保十四〈一七二九〉年十二月十四日寂)の卵塔には「中興 御堂造立主」とあり、高観(安永八〈一七七九〉年五月八日寂)の卵塔には「中興開山大阿闇梨」「修殿堂」などの文字が刻まれている。また、片山南蔵院の過去帳にも、弘誓院住持の宥教(延享二〈一七四五〉年二月三十日寂)が「観音堂造作主」と明記されているなど、寛永四年建立説は再検討を要するものと思われる。
ともあれ、本堂は入母屋千鳥破風造りで銅板が葺かれ、流れ向拝を付し、かのこ建てに回廊と高欄を巡らした総欅造りの美しい外観を有し、内陣の格天井には区画ごとに梵字が描かれ、本尊聖観音を祀る宮殿(四尺四方)は千鳥破風造り極彩色の荘厳を極めている。本尊は通常は秘仏として開扉せず、六十年ごとに開扉が行われる。最近は昭和四十六年十月十八日~十九日の二日にわたって行われ、二千余名の参詣者で盛会を極めた。古来、諸方からの信仰をあつめ、昔坂東三十三観音の決定会の際は、到着が遅れて選にもれたといわれるが、下総三十三ヶ所観音の霊場としては、権威ある第三十三番の札所とされている。(「沼南町史」より)

「千葉縣東葛飾郡誌」による弘誓院の縁起

弘誓院は大同年間に行基作の三尺三寸櫻木觀音佛を本尊として建立せしところなるが後傳教大師作の地蔵尊を安置し、地方の信仰深く相馬彌七郎胤光、原兵部小輔胤定、高城下野守等の大檀那ありて珍寶を喜捨し仁王門、鐘樓等を造營せしが後火災に罹りたれば檀徒相謀りて堂宇を再建せしも其の構造亦前日の比に非ずと。
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利根川圖志
常陸小野崎城主、新井縫殿介源照信の記中に、當家守本尊同郡相馬郷柳戸村觀世音菩薩なりとあるは是也。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)


弘誓院所蔵の文化財

  • 木造聖観世音菩薩坐像(千葉県指定有形文化財)
  • 法華経版木(柏市指定有形文化財)
  • 銀杏(柏市指定天然記念物)

木造聖観世音菩薩坐像

鎌倉時代(一三世紀後半)。本像は曼荼羅に描かれた聖観音の形に一致する密教系の観音像。左手に蓮華をもち、右手でその華を開く勢を示し、結跏趺坐する。平安時代後期以来の伝統的割矧技法をもつが、引き締まった相貌や彫りの深い衣文の彫法等に鎌倉時代の作風を示す。作者系統は明らかでないが、一三世紀前半から半ばにかけて活躍した仏師定慶の作風の影響がうかがわれる。大きな主材を使ったやや変則的な木取りや幅広い両肩や両脚部のつくりなどに地方性を示していると共に、迫力ある表現を生み出しており、鎌倉期の数少ない聖観音像として貴重である。(普段は秘仏のため拝観はできません。)(千葉県・柏市教育委員会掲示より)

法華経版木

この版木は、昭和三十八年本堂屋根替の時、天井部分から発見されました。一時に五十枚前後の版木が見つかったのは、非常に珍しいことです。このうち、完形のものは三十枚あります。
製作年代は不明ですが、当時の伝えでは、約五百年程前とされています。長い間天井にあったため、全体的に保存は良好で、硬い桜材が用いられています。
法華経は、大乗経典のひとつで、仏出世の本旨を説き、諸々の大乗経典のうちでも最も高遠な妙法を開示した経典です。(柏市教育委員会掲示より)

弘誓院の周辺図


参考資料

  • 「沼南町史」
  • 「千葉縣東葛飾郡誌」