東光山醫王寺|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場、下総四郡八十八所霊場
醫王寺の概要
浄土宗寺院の醫王寺は、東光山安楽院と号します。醫王寺は、当地より北東の字堂ノ山に奉安されていた薬師如来像を、行蓮社経誉愚底上人が当地へ遷し、寛正2年(1461)に開創、薬師堂は信仰を集め当地では旅寵を営む家が数軒あったともいいます。行蓮社経誉愚底上人は、その後東漸寺・行念寺・常行院などを創建、永正14年(1517)当地で示寂しています。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場20・88番、下総四郡八十八所霊場88番です。
山号 | 東光山 |
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院号 | 安楽院 |
寺号 | 醫王寺 |
住所 | 千葉県柏市鷲野谷510 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
醫王寺の縁起
醫王寺は、当地より北東の字堂ノ山に奉安されていた薬師如来像を、行蓮社経誉愚底上人が当地へ遷し、寛正2年(1461)に開創、薬師堂は信仰を集め当地では旅寵を営む家が数軒あったともいいます。行蓮社経誉愚底上人は、その後東漸寺・行念寺・常行院などを創建、永正14年(1517)当地で示寂しています。
「沼南町史」による醫王寺の縁起
当境内は星神社の北方に位置する。山門の奥には本堂があり、その右手の高台に薬師堂が建っている。山門と薬師堂からは、それぞれ一二〇メートルほどの参道が平行して設けられ、東西に走る町道へと連なっている。この独立した参道、及び当寺の山号・寺号・院号すべての由来は、ともに当寺の歴史における薬師堂の地位をよく示すものである。
当寺は、室町期の寛正二(一四六一)年、行蓮社経誉愚底上人による開創である。本寺である東漸寺(松戸市小金)の『東漸寺史』や、上人の「墓碑銘」などによれば、経誉は信州洗馬の生まれで、増上寺第三世聖観の高弟であった。教学を学び、維摩経や華厳経に精通していた。寛正年間に鷲野谷に来て、この地が薬師霊応の処と聞いて留錫した。堂宇は荒廃していたが、慧心僧都作と伝える薬師如来が安置されていた。そこで、これを現在の地に移転して伽藍を建立し、医王寺を開いた。文明十三(一四八一)年に小金に帰り、東漸寺・行念寺・常行院などを創建して教化に努め、永正十四(一五一七)年、ふたたび鷲野谷に帰って示寂した。その遺骨は医王寺に葬られ、後に宝暦六(一七五六)年に至り、時の東漸寺住持が撰するところの墓碑銘が建てられた、という。現在、薬師堂後方の開山堂にはこの荘重な墓碑が存在し、その命日である六月六日を供養して、今も毎月六日には老婆達のお籠りが続けられている。
ところで、経誉が移転する以前の薬師堂は、現在の境内から約五〇〇メートルほどの東北方の字堂ノ山にあったといわれ、該地の山林(寺有地)内には現在山王権現の石祠が祀られている。この附近からは最近二枚の板碑が出土し、一は康永ニ(一三四三)年、他は文安三(一四四六)年良燦阿闇梨の文字が、それぞれ刻されていた。
また、現存の薬師如来像(町指定文化財)を昭和四十八年に修理の際、体内(首の内側部分)から「長禄二戊寅(一四五八)十一月吉日・・・大仏師春慶」なる墨書銘が発見された。
春慶(一四九九没)は鎌倉の巨匠、運慶の孫弟子で奈良に住し、法隆寺宝珠院の五髻文殊像(重文)や京都三十三間堂内の観音像(同上)をはじめ、寛正から明応ごろにかけて多くの秀作を生んだ名工である。
したがって、当寺の前身は遅くも南北朝の初期ごろから字堂ノ山の地に所在し、それは「阿闇梨」の僧位から天台系の寺院であったかと思われ、薬師堂がその中心をなしていたものと推定される。春慶作の尊像は、経誉の医王寺開創に先だつこと四年の製作であるから事実上開創に際して彫刻されたものとも思料される。ともあれ当寺創立を機として、この薬師如来は民衆からの帰依を集め、遠隔の地から参詣する信者も多かったため、当地では旅寵を営む家が近年まで数軒も存在していたといわれる。(「沼南町史」より)
醫王寺の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」