無量山壽量院|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場
壽量院の概要
真言宗系単立寺院の壽量院は、無量山長福寺と号します。壽量院の創建年代等は不詳ながら、江戸時代中期までは当寺も神明山と号し塚崎神明社の別当を勤めていたことから、塚崎神明社が創建したと考えられる平安時代末期にまで遡るのではないかともいいます。宝暦7年(1757)義真が中興開山し、真言宗豊山派に属していました。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場18・76番、下総四郡八十八所霊場76番、関東三十三観音霊場6番です。
山号 | 無量山 |
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院号 | 壽量院 |
寺号 | 長福寺 |
住所 | 千葉県柏市塚崎815 |
宗派 | 真言宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
壽量院の縁起
壽量院の創建年代等は不詳ながら、江戸時代中期までは当寺も神明山と号し塚崎神明社の別当を勤めていたことから、塚崎神明社が創建したと考えられる平安時代末期にまで遡るのではないかともいいます。宝暦7年(1757)義真が中興開山し、真言宗豊山派に属していました。
「沼南町史」による壽量院の縁起
当寺は往時の火災で古記録が失われたため、創建等の由緒は不詳である。旧本寺の東福寺にも、当寺の記録は存しない。しかし、昔は当寺が神明社の別当職を務め、神明社は当院の奥の院であったと伝えられる。また、江戸中期まで当寺は”神明山寿量院”と記録されており、直線の参道はあたかも神明社の方角に向かっていることが注目される。これらの事柄は、当寺と神明社が歴史的に密接な関係にあったことを示し、当寺が神明社の創建時期(平安末期)から存在していることをも示唆するものである。
中世に当寺が存続していたことは、寺有墓地に建てられている少なからぬ板碑によっても知られる。ただ、歴住者の中で確認できる最古の人は、慶長十八(一六一三)年二月示寂の栄隆であり、次いで享保十二(一七二七)年九月示寂の秀弁であるから、江戸初期から中期にかけては無住の時代があったことを示している。
宝暦七(一七五七)年、荒廃した当寺を復興したのは中興開山義真であり、この人によって真言宗豊山派に配せられたという。本寺東福寺との関係もこの時以来のことであろう。なお、昔の本堂は現在の墓地に当たる低地にあったといわれるが、それがいつのころであったかは不詳である。
江戸末期の文政年間(一八一八~)、当寺は火災によって諸堂を焼失した。そのため、文政十三(一八三〇)年十一月に本堂(六間半×六間)と、その右側に並ぶ庫裡(五間×七間)とを再建した。時の棟梁は手賀の仁兵衛であった。これらの堂宇が老朽のために解体され、昭和四十四年から四十五年にかけて改築されたのが現在の本堂・庫裡・客殿などである。ただし、客殿は旧本堂の古材を利用した建造であった。(「沼南町史」より)
壽量院の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」