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本壽寺|千葉市緑区土気町にある顕本法華宗寺院

本壽寺の概要

顕本法華宗寺院の本壽寺は、如意寶珠山と号します。本壽寺は、酒井定隆が土気城主となると、帰依していた本行寺開山日泰上人を当地へ招聘、善生寺(善勝寺)を法華宗寺院に改め、さらに長享元年(1487)に当寺を開山したといいます。日泰上人の求めにより酒井定隆は(概ね七里四方の)領内寺院の殆どを法華宗に改めさせたことから”七里法華”と呼ばれています。徳川家康の関東入国に際し天正19年(1591)には寺領30石の御朱印状を受領、末寺19ヶ寺を擁し、妙満寺輪番上總十箇寺の一となっていました。

本壽寺
本壽寺の概要
山号 如意寶珠山
院号 -
寺号 本壽寺
住所 千葉市緑区土気町215
宗派 顕本法華宗
葬儀・墓地 -
備考 -



本壽寺の縁起

本壽寺は、酒井定隆が土気城主となると、帰依していた本行寺開山日泰上人を当地へ招聘、善生寺(善勝寺)を法華宗寺院に改め、さらに長享元年(1487)に当寺を開山したといいます。日泰上人の求めにより酒井定隆は(概ね七里四方の)領内寺院の殆どを法華宗に改めさせたことから”七里法華”と呼ばれています。徳川家康の関東入国に際し天正19年(1591)には寺領30石の御朱印状を受領、末寺19ヶ寺を擁し、妙満寺輪番上總十箇寺の一となっていました。

境内掲示による本壽寺の縁起

如意寶珠山本壽寺の歴史
本寺は山辺郡土気本郷町西山にあって境内二千七百三十七坪を擁し、上総十ヶ寺の一で、末寺十九ヶ寺をもっている。寺伝にうよれば長享元年(一四八七年)三月、土気城主酒井定隆公の時の開基で僧日泰上人の開山によるものである。初め定隆は足利義政公に仕えたが後、関東に下って里見義弘に依り、略武を謀って一大勢力を得ようとし、武州品川から下総に渡航しようとした時たまたま僧日泰上人と同船した。時に、海上で台風に遭い、船がまさに転覆しようとしたとき、日泰上人は舷頭に立って論経祈祷を始めた。しばらくして暴風は忽ち止み、海上は静穏となって遂に転覆を免れて、浜野の海岸に到着することが出来ました。此の時、定隆公は日泰上人に対し、「吾もし妙法の功徳によって武運開け、一国一城の主となる事が出来れば、その領内の寺院は悉くこれを改宗させて上人の御に報いる」と誓約し、定隆公は房州に赴いて里見義弘と協議し、下総中野に一城を築いてこれを拠点として、東上総の大半征服し土気城を再興し、ここに移った。程なく日泰上人を浜野より迎えて厚く之を待遇し、よくその説法を聞くに至った。
定隆公は間もなく真言宗の某寺を改めて善生寺(善勝寺)としたが、日泰上人は更に本壽寺を新たに建て、猶領内の寺院を悉く改宗させるよう、定隆公に求めたので定隆公は日泰上人の言葉に従い、東上総の寺院の大半を日蓮宗に改めさせ、総てを妙満寺派に属することとした。
これを七里法華と呼んだ。更に天正十九年(一五九一年)十一月には徳川家康公が寺領として三十石を寄進している。その境内は平坦で樹木鬱蒼としていたが宝永三年(一七〇六年)火災で堂宇・伽藍全焼、同四年再建その後明治三十七年一月二十七日再度の火災に罹り泰師堂・庫裡等は灰に帰し今は本堂一宇を遺すのみえほとんど昔の姿はみられない。(境内掲示より)

「稿本千葉県誌」による本壽寺の縁起

如意山本壽寺
同町(山武郡旧山邊郡土氣本郷町)大字土気字西の山に在り、境内三千六百二十八坪、日蓮宗妙満寺派なり、もと本山輪番上總十箇寺の一にして末寺十九あり。寺傳に云ふ、長享元年三月酒井定隆開基し僧日泰を開山とし、酒井氏代々の祈願所たり、定隆日泰に歸依し、眞言宗極楽寺を改めて日蓮宗善生寺と爲す、日泰慊らず定隆乃ち亦本寺を建つ、日泰猶慊らず悉く領内を改宗せんことを望む、定隆之に從ふ、是に於て東上総の寺院大半日蓮宗となり、新に改宗する者は總て妙満寺派たり、里俗之を呼んで七里法華と曰ふ、本寺實に其の根本なりと。天正十九年家康寺領三十石を寄す、今なほ多く酒井氏の古器を蔵し、本堂、泰師堂、庫裡、鐘樓等の構造頗る觀る可し、泰師堂は日泰を祀れる所にして信徒多し、明治十六年泰師講社を創めしかば之に加入する者六千人に至れり。(「稿本千葉県誌」より)


本壽寺の周辺図


参考資料

  • 「稿本千葉県史」

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