先崎鷲神社|佐倉市先崎の神社

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先崎鷲神社|佐倉市先崎の神社

先崎鷲神社の概要

先崎鷲神社は、佐倉市先崎にある神社です。先崎鷲神社は、新撰佐倉風土記によると、平将門の乱を調伏するため、朱雀天皇の勅命を得て、承平7年(937)慈恵大師(元三大師・天台座主)が当地に来て創建したといいます。一方印旛郡誌では遣検使が当地で休息した際、飛んできた鷲鳥が奇異な形状だったことから鷲を祀るように命じられて創建したとしています(鷲神社は、埼玉県北東部に数十社鎮座、本社は旧鷲宮町に鎮座する鷲宮神社です)。その後の沿革は不詳ながら、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領5石を安堵され(下總國舊事考)、慶安2年(1649)には社領7石の御朱印状が下付されていました。境内のケヤキの大樹は当社開創と共に植えられたものと推定される他、鷲神社の本殿・鳥居は佐倉市文化財に、先崎鷲神社の神輿及び神輿渡御は佐倉市民俗文化資産に指定されています。

鷲神社
先崎鷲神社の概要
社号 鷲神社
祭神 天日鷲命
相殿 -
境内社 琴平神社、粟島神社、疱瘡神社など
例祭日 11月1の酉日
住所 佐倉市先崎1580
備考 -



先崎鷲神社の由緒

先崎鷲神社は、新撰佐倉風土記によると、平将門の乱を調伏するため、朱雀天皇の勅命を得て、承平7年(937)慈恵大師(元三大師・天台座主)が当地に来て創建したといいます。一方印旛郡誌では遣検使が当地で休息した際、飛んできた鷲鳥が奇異な形状だったことから鷲を祀るように命じられて創建したとしています(鷲神社は、埼玉県北東部に数十社鎮座、本社は旧鷲宮町に鎮座する鷲宮神社です)。その後の沿革は不詳ながら、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領5石を安堵され(下總國舊事考)、慶安2年(1649)には社領7石の御朱印状が下付されていました。江戸期には隣接地にあった正覚院が別当を勤め、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。

「千葉県神社名鑑」による先崎鷲神社の由緒

由緒に関する記載なし(「千葉県神社名鑑」より)

「稿本千葉縣誌」による先崎鷲神社の由緒

鷲神社
同郡同上(舊印旛郡)志津村大字先崎字宮越に在り、境内八百坪あり、祭神は天日鷲命。社傳に云ふ、承平七年僧良源勅を奉じて之を創建すと、後徳川家光社領七石を寄附す。(明治三十九年十二月幣帛料供進指定)(「稿本千葉縣誌」より)

「印旛郡誌」による先崎鷲神社の由緒

村社鷲神社
先崎區字宮の越にあり天日鷲命を祭る毎年九月九日大祭を行ひ社掌祭典の儀式を擧ぐ創立不詳公稱は(年暦人名不詳)遣檢使巡檢の節茲に休息せり時に鷲鳥一羽前檟木の上に飛来れり其の形甚だ奇なるを見て曰く此の鳥誠に奇なり宜し此の社に祭るべしと由て鷲宮と稱し来れりと古老の口碑に存せり後三代将軍家光公より慶安二年十月十七日五石の朱印を頂戴し(其証に曰く五石事先規寄附の□任すと有しも久しきを以て其の証を失ふ)而して帶礪せり後天保十五年舊殿頽破するを以て現社を新築す而して其礎片今存して妊娠者之を削り粥と交へ安産の爲食す且村例鳥類を食するを禁ず蓋し鷲鳥を祭るを以てなるべし社殿一見一尺四方氏子四十二戸あり管轄廳まで五里二十町とす境内に神社三社あり即
一、疱瘡神社 大己貴命を祭る由緒不詳建物二間四方
二、粟島神社 少彦名命を祭る由緒不詳石宮なり
三、琴平神社 金山彦命を祭る由緒不詳石宮なり(神社明細帳)
〇(新撰佐倉風土記云)在先崎村舊風土記曰大将軍家光公被寄祭田七石地焉未詳祭何守正覺寺主掌社事承平七年七月七日慈惠奏上奉朱雀帝之勅来祭此神而調臥平将門安行基所刻之釋迦像因其鷲峰名曰鷲宮應永中罹回禄失其記云延寶年間寺主定宥處記如此不審其是否疑祭天日鷲命乎亦未得其證焉武蔵國太田荘有鷲宮而東鑑載建久四年十一月其神前血流事亦同神也
〇(下總國舊事考云)鷲明神社在先崎盖祀曰鷲命未知其由祭日正月上酉日九月上酉日別當正覺寺(新義眞言宗隷井野村千手院)社領五石(天正十九年辛卯十一月付)(「印旛郡誌」より)


先崎鷲神社所蔵の文化財

  • 鷲神社の鳥居(佐倉市指定有形文化財)
  • 先崎鷲神社の神輿及び神輿渡御(佐倉市民俗文化資産)
  • 鷲神社の本殿・鳥居・ケヤキの大樹(佐倉市指定文化財)

鷲神社の鳥居

鷲神社の鳥居は、江戸時代中期の寛文十三年(一六七三)に建立された石造の鳥居です。鷲神社別当正覚寺の住職・定宥が建立主となり、江戸深川の石屋五郎兵衛が製作しました。明神鳥居の形式を持つ鳥居の大きさは高さ三八八cm、横幅五七七cmを測り、市内にある石鳥居の中で最大級です。(境内掲示より)

先崎鷲神社の神輿及び神輿渡御

先崎鷲神社は、江戸時代には三代将軍徳川家光から五石の朱印地を賜ったといわれ、境内には市の文化財に指定された本殿、鳥居、ケヤキがあります。
鷲神社の神輿は、文化元年(一八〇四)に製作されました。屋根には葵、装飾には菊花、巴、卍の紋章が見られるなど、華やかな中にも荘厳さを持ち合わせています。神輿の渡御は三年に一度、十一月の一の酉前後の日曜日に行われています。房総の伝統的行事の「オハマオリ」は現在も受け継がれ、干拓田(かつての印旛沼)に神輿を入れて五穀豊穣を願います。
渡御の中では花笠を持った幼児、金棒を持った女装束姿の独身男性二人が筆を添え、往時の印旛沼と祭礼の様子がしのばれます。(佐倉市教育委員会掲示より)

鷲神社の本殿・鳥居・ケヤキの大樹

鷲神社の本殿・鳥居・ケヤキの大樹
鷲神社の開創は、『佐倉風土記』によると「承平七年(九三七)七月七日、慈恵奏上、朱雀帝の勅を奉じ、来りて此の神を祭る」とあります。
本殿は、天保十五年(一八四四)建立されたもので大工棟梁は立石菊右衛門藤原元隆(八千代市下高野)、柱や本殿四面の彫刻は星野理三郎政一(群馬県勢田)の手によるもので、大江山鬼退治を題材としています。建立にあたっては、近隣の八千代市や印旛村などの人々から奉納金を募ったもので、神社に対する信仰の広がりがうかがえます。
鳥居は、寛文十三年(一六七三)定宥が建立したもので、作者は深川の石屋五郎兵衛です。鳥居の形式は明神式で、石造の鳥居としては市内で比類のない大きなものです。
境内にあるケヤキ(ニレ科)の大樹(樹高十六m、目通り幹囲六・三m)は、当社開創と共に植えられたものと考えられ、応永年間(一三九四-一四二八)の神社の火災により被害をうけた形跡があります。市内においてはこのような古木は珍しく、学術上からも貴重な資料といえます。(佐倉市教育委員会掲示より)

先崎鷲神社の周辺図


参考資料

  • 千葉県神社名鑑
  • 「稿本千葉縣誌」
  • 「印旛郡誌」