鷲宮神社。関東地方でも随一の古社、准勅祭社、「酉の市」の本社
鷲宮神社の概要
鷲宮神社は、久喜市鷲宮にある神社です。鷲宮神社の創建年代等は不詳ながら、天穂日命とその御子である武夷鳥命が二七の部族を率いて当地に入植、国土経営の神である大己貴命を祀る神崎社を建て、次に当地を聞いた天穂日命と武夷鳥命を祀る当社を建立したと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳には記載されていないものの、関東地方でも随一の古社だといいます。鎌倉期には太田氏の、室町期には小山氏の崇敬を受け、また古河公方の祈願所となっていました。徳川家康が関東に入国した際には天正19年(1591)には社領400石の御朱印状を受領、明治維新後には明治元年に准勅祭社として奉幣使の参向があり、明治6年には県社に列格した、当地方屈指の大社です。また、日本各地で年末に祭られる「酉の市」の本社としても著名です。
社号 | 鷲宮神社 |
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祭神 | 天穂日命、武夷鳥命、大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | 久伊豆社、姫宮神社、八幡神社、鹿島神社、稲荷社、神明社、諏訪社、八坂社、粟島神社、神崎神社、軍神社・日枝神社・御室神社・胸肩神社・竈殿神社・浅間神社・稲荷神社・庫裡神社・式内神社・衛神社合殿 |
祭日 | 大酉祭 |
住所 | 久喜市鷲宮1−6-1 |
備考 | - |
鷲宮神社の由緒
鷲宮神社の創建年代等は不詳ながら、天穂日命とその御子である武夷鳥命が二七の部族を率いて当地に入植、国土経営の神である大己貴命を祀る神崎社を建て、次に当地を聞いた天穂日命と武夷鳥命を祀る当社を建立したと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳には記載されていないものの、社名「鷲」は、土師器を生産する「土師」に由来するとの説もあり、関東地方でも随一の古社だといいます。鎌倉期には平将門の乱で功を挙げた藤原秀郷の末裔太田氏の、室町期には太田氏庶流の豪族小山氏の崇敬を受け、また古河公方の祈願所となっていました。徳川家康が関東に入国した際には天正19年(1591)には社領400石の御朱印状を受領、明治維新後には明治元年に准勅祭社として奉幣使の参向があり、明治6年には県社に列格した、当地方屈指の大社です。また、日本各地で年末に祭られる「酉の市」の本社としても著名です。
境内掲示による鷲宮神社の由緒
当社は、天穂日命、武夷鳥命、大己貴命を御祭神としています。
当社の境内地は、縄文時代や古墳時代の住居の跡が見つかっていることから、古くから開かれた場所であったことがわかります。
当社が記された最も古い歴史書として、鎌倉時代の「吾妻鏡」があり、その記述から源頼朝や執権北条氏からの尊崇を得ていたことが知られています。
その後、室町時代になると下野国守護の小山氏や古河公方足利氏、小田原北条氏などの保護を受け、徳川家康からも四百石の領地を与えられました。
このようなことから、当社は今も多くの分際を所蔵しています。(鷲宮神社社務所掲示より)
新編武蔵風土記稿による鷲宮神社の由緒
(鷲宮村)
鷲明神社
當社は式内の神社にはあらざれど、尤古社なり。祭神は天穂日命にて、大昔飯三熊之大人天夷鳥之命を合祀す、【日本書紀神代巻】に曰、素戔嗚尊乃轠轤然解其左髻所纏五百箇統之瓊綸、而瓊響瑲々、濯浮於天渟名井、囓其瓊端、置之左掌而生兒、正哉吾勝勝々日天忍穗根尊、復囓右瓊置之右掌而生兒天穗日命、此出雲臣、武藏國造土師連等遠祖也と是なり、故に土師宮と號すべきを、和訓相近きをもて、轉じて鷲明神と唱へ来れりといへり、又【羅山文集】に據ば、當社に昔縁起十巻ありて、有間王子良岑安世こゝに来て神となる、本地は釋迦なりと記したれど、全く浮屠の妄説なりと見えたり、鎮座の年歴は詳ならず、【東鑑】建久四年十一月十八日の條に、武蔵國飛脚参申伝、昨夕當國太田庄、鷲宮御寶前血流爲凶怪之由云々、則卜筮之處兵革兆云々、十九日壬午被奉神馬(鹿毛)於鷲宮、又可荘厳社壇之旨被仰下、榛谷四郎重朝爲御使云々、又承元三年二月十日甲戌、武蔵國太田庄鷲宮寶殿鳴動之由馳申之、又建長三年四月十三日癸卯、相州(按に從五位上相模守時賴を指)鷲大明神奉幣、可遣御使於武蔵國之處、三嶋之神事也、他社御奉幣事、敢可有其憚之由、當社神主申、仍被譲子細於若宮別當法印之間今日進發云々、同月二十二日若宮別當法印、自武蔵國鷲宮歸参、御祈願成就、奇瑞不一、去十九日於社頭御神楽之砌、一之見事託宣尤嚴重、殊有其奇怪之由云々、又建仁三年十月十四日己酉、鶴岡幷二所三嶋日光宇都宮鷲宮野木宮、以下諸社被奉神馬、是世上無爲御奉賽云々と載たる、鷲宮も當社なるべし、又今當社内に存せる文禄四年の棟札に、正應五年壬辰九月十三日、相模守貞時再興、應安五年壬子十一月十八日、下野守藤原義政再興せし由記し、及永和二年の義政が奉納せる神劔、文安二年・長禄二年の銅鏡、足利晴氏以下の寄附状等あるにても、古社なる事知らる、御當代となりても天正十九年先規の如く、社領四百石の御朱印を賜ひしより今も同じ、天下泰平御祈禱として毎年三月十日・十一日神事あり、此時神樂、催馬樂等を興行す、又七月七日には近郷の人つどひ来りて賑へりと云、古棟札の圖右の如し、
神宝
劍一振。長五尺二寸、幅一寸九分、中心一尺五寸七分、銘なし、往古よりの神劔と云傳ふ、
太刀一振、小山下野守義政が納めしものと云、其圖上の如し、
寶珠。火取玉。鵝腹ノ玉。鹿麁ノ玉。牛黄玉。駒玉。以上七種の玉と稱して、當社第一の神寶とす、
鉾一銅鏡二面。此餘無銘の古鏡四面あり、其内一は角なり、皆古物なること論なし、
本社。前に幣殿拝殿を建續く、幣殿の額は後西院の皇女の筆也と云、
神崎神社。社傳に天穂日命の荒魂を祝ひ祀る神の陵と云中略にて神崎と號すといへり
本地堂。鷲明神の本地佛釋迦を安置す、座像長三尺、こは昔右大将賴朝南都招提寺へ寄附の像なりしを、後年故ありて當所へ移し安置すと云、
神樂堂。
末社。太神宮、鹿島、素戔嗚尊、姫宮八幡宮や神谷八幡香取合社、天王、天神、猿田彦命天鈿女命武内宿彌稲荷淺間駒形軍神御室山王合社、
大宮司大内隠岐。家譜を閲るに、藤原秀郷六代の孫、田原上野介賴定、建久年中下野國芳賀郡大内庄に住してより、大内氏を稱し、藤原宗綱に屬す、この宗綱は佐野修理大夫にや、大内氏當社の神職となりしは、其初の人を詳にせず、子孫民部太夫大和守弾正少弼など云あり、弾正少弼泰秀の時に至り、東照宮奥州會津御陣として、この邊御通行の頃忠勤の事あるによりて、御手自御盃を賜はり、又御刀御馬・及時服・蒔繪・御銚子等をも賜ひしが、泰秀の子左馬介泰定横死の事ありて、其時御刀は失ひしと云、今の隠岐まで泰秀より十代相續すれど、大宮司の稱號は正徳年中御免ありしとなり、社人六人、神樂役七人、巫女二人屬して祭祀祈禱等の事を勤行せり、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による鷲宮神社の由緒
鷲宮神社<鷲宮町鷲宮一-六-一(鷲宮字堀内)>
当社は、浮き島と呼ばれる中川右岸の徽高地に鎮座している。浮き島と呼ばれるのは、一帯に広がる中川と利根川の乱流地帯の低湿地から見ると、まるで波間に浮かぶ島のように見えたからで、当社を別名「浮き島大明神」というのもここからきている。当地は、古代から開かれた所で、当社境内にある堀の内遺跡からは、縄文・弥生・古墳時代の遺物が出土している。
創建は、社伝によると、往古、天穂日命とその御子である武夷鳥命が二七の部族を率いて当地に入植し、まず、国土経営の神である大己貴命を祀る神崎社を建て、次に当地を聞いた天穂日命と武夷鳥命を祀る当社が建立されたとある。なお、神崎社は、現在、当社の摂社として祀られている。
当社が式内社に選ばれなかったのは、恐らく当地一帯が利根川や中川の乱流地帯で、まだ開発が行き届かず、これを祀る氏族もその勢力が弱かったためであろう。なお、当社の社名については、「鷲」が土師器を生産する「土師部」に音が通ずることから、土師氏の奉斎する土師宮とする説がある。
平安後期から鎌倉初期にかけて、当社にかかわりを持った氏族を想定するならば太田氏が挙げられる。太田氏は、平安後期から当地を含む太田郷一帯の水田を開発して私領を形成し、その管理者として経済力を蓄積した在地豪族である。『尊卑分脈』によると、この太田氏は平将門の乱で功を挙げた藤原秀郷の裔で、太田行尊の代には、下野介・太田大夫・太田別当を務めている。また、同氏は、自ら開発した太田荘を、鳥羽上皇の娘である八条院暲子に寄進することにより、女院御領である八条院領太田荘を成立させ、権門勢力を背景として、以前に増してその勢力を拡大した。当社が中世以来、太田荘の惣鎮守として崇敬され、民衆の信仰を集めるようになったのは、既に古代末期から太田荘の領主である太田氏の庇護を受けていたためであろう。
鎌倉期になると、建久四年(一一九三)十一月、当社の神前に血が流れる凶事があり、卜鑑の結果、兵革の兆しであると出たことを報告し、これを受けた幕府は、直ちに武蔵武士の榛谷重朝を使者に立て、鹿毛の馬を奉納し、血で穢れた社殿の荘厳を命じたことが『吾妻鏡』に載っている。また、南北朝期に編纂された『神道集』の三嶋明神の事に、鷲明神が太田荘へ飛び移っていったという記事を載せている。これらの記事は、鎌倉幕府が支配強化を進めていく中で、関東の最も尊重すべき神社として、当社が鶴岡八幡宮・伊豆山権現・箱根権現・三嶋神社などとともに注目されるに至ったことを示している。太田荘は奥州へ抜けるための武蔵国の要衝であるとともに、平安後期から開発の進んだ沃地であったことから、幕府にとって地理的にも経済的にも見逃すことのできない所であったのである。
南北朝初期には、当社は小山氏の崇敬を受けている。『梅松論』によると、鎌倉幕府攻略の際、小山犬丸(朝氏)が戦功を挙げたことから、恩賞として太田荘を足利尊氏から与えられた。小山氏は、下野国小山荘(栃木県小山市)を拠点とする太田氏庶流の豪族であることから一族ゆかりの地を得たことになる。当社における小山氏の事跡については、応安五年(一三七二)十一月の小山義政による社殿造営と永和二年(一三七六)四月の備中住人吉次鍛造の刀剣奉納がある。
享徳三年(一四五四)鎌倉幕府の内紛から鎌倉公方足利成氏は、上杉憲忠を殺害したため享徳の乱が起きた。この中で、足利成氏は、室町幕府の派遣軍今川範忠に鎌倉を攻略されたため、康正元年(一四五五)に下総国古河城へ移り、古河公方となった。このため、当社はこの時期から古河公方の配下に置かれ、その祈願所とされた。康正二年(一四五六)二月、当社に納めた足利成氏の願文には、敵対する室町幕府と上杉軍を撃滅することを祈り、叶った暁には、社股修造のため足立郡と埼玉郡の段銭(租税)を寄進するとある。
成氏以後は、政氏・高基・晴氏などが当社を祈願所として崇敬し、殊に晴氏は、当社の神主大内晴泰に対して社領の守護不入・諸公事免許の特権を与え、太田荘のうち篠崎郷を社領として寄進している。しかし、権威を誇った古河公方も、戦国末期、晴氏の代には小田原の北条氏康と争った結果、天文二十一二年(一五五四)に拠城である古河城が攻略され、晴氏も関宿で幽閉されることになった。このため、北条氏の版図は、武蔵国全域に拡大し、おのずから当社も北条氏の祈願所として位置づけられるようになった。
また、この時期、当社神主大内氏は、北条氏の麾下として鷲宮社領を支配する鷲宮城主でもあったことから、神事ばがりでなく、鷲宮在城衆を配下に持ち、武将として戦の際には北条氏に与力もしていた。大内氏の所領、つまり当社の社領域は、天正十八年(一五九〇)六月、北条氏直によって出された安堵状によると、埼玉郡内の川口・篠崎・花崎・久下・久目原・和戸・大桑・大室・辻などにまたがり、禄高一五九貫七〇〇文に上る。これは石高に換算すると七〇〇石を超えるものであった。
しかし、天正十八年七月、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、更に、徳川家康が関東に転封になると、当社は徳川家の支配下に組み込まれ、翌十九年(一五九一)十一月に四〇〇石の社領が安堵された。この四〇〇石という額は、先に北条氏が安堵した額と比べると、減額されたもので、社領域も当社の鎮まる鷲宮一村に限定された。また、社蔵棟札によると、この関東における政権移行期に、神主大内氏は社殿の造営をを試みるが、かつての社領であった村々や古河公方ゆかりの久喜の甘棠院は、支配が替わったことを理由に造営協力を拒否したばかりでなく、貸し付けてあった造営銭も返却しなかった。
江戸期の神社運営は、神主であり社領の領主である大内氏とその配下によって行われた。このうち、神事方には、社人・神楽役・巫女などが置かれ、祭祀及び社務を行った。社僧は、供僧頭の真言宗大乗院をはじめ、これが管理する万善寺・実相院・宝珠院・福伝坊などがあった。また、神事や仏事にはかかわらないが、社領である鷲宮村を管理する社領代官が置かれた。
経営の長である大内氏の立場は、徳川家の支配下に組み込まれる中で鷲宮城主としての武力を放棄し、神主として祭祀だけに専念するようになったが、従来の武将的気質をも失わず、宝暦九年(一七五九)に幕府に差し出した「鷲宮大明神由緒並私家之由緒書」によると、代々武士を兼ねた神主であることを強調し、鑓を所持して社人の争いを裁いたとある。また、『莂萱氏(後に大内を名乗る)系図』によると、毎年正月六日の年始、継目登城の時、及び老中並びに寺社奉行用向きの際には、万石以上の格式による四ツ供の供立てを赦され、将軍には独礼席で謁見し、祈禱神礼・鳥目一貫文を献上する例であった。
明治期に入ると、当社は由緒ある大社であることから、明治元年に准勅祭社として奉幣使の参向があり、同六年には県社になった。
また、先の慶応四年(一八六八)、神仏分離が発令されたことにより、供僧大乗院主は復職して東大路義江を名乗り、明治二年に当社の禰宜に転じて大乗院をことごとく破壊した。
次いで明治四年、寺社領の上知令が発せられたため当社は徳川家より安堵されていた四〇〇石の社領を収公された。その後、逓減禄を給されたが、これは鷲宮領主大内氏に対してではなく社禄であったために、大内氏の経済的基盤はすべて剥奪されることになった。更に、明治五年の太政官布告により、神主の世襲制が廃止されたことから、大内氏は祠掌に降格され、代わって足立郡中川村の小山太郎が初代祠官(宮司)に任じられた。(「埼玉の神社」より)
鷲宮神社所蔵の文化財
- 太刀(国指定重要文化財)
- 鷲宮催馬楽神楽(国指定重要無形民俗文化財)
- 寛保治水碑(埼玉県指定史跡)
- 銅製双鶴蓬莱文鏡(埼玉県指定有形文化財)
- 銅製御正体(埼玉県指定有形文化財)
- 鷲宮神社文書付棟札一枚文書三点(埼玉県指定有形文化財)
- 鷲宮神社関係資料(久喜市指定有形文化財)
太刀
下野国守護の小山義政が寄進した太刀です。「永和二年卯月十九日 義政」という銘が刻まれています。永和二年は西暦一三七六年。市の郷土資料館に写しを展示しています。(鷲宮神社社務所掲示より)
鷲宮催馬楽神楽
関東神楽の源流といわれ、古い様式を残しているといわれています。年六回奉納。現在は催馬楽神楽保存会によって伝承活動が行われています。(鷲宮神社社務所掲示より)
寛保治水碑
寛保二年(一七四二)の大洪水によって、利根川上流以南の堤の復旧工事に携わった長州藩(毛利家)が、無事に完成したことを感謝して奉納した碑です。(鷲宮神社社務所掲示より)
銅製双鶴蓬莱文鏡
二枚の御正体です。御正体は壁にかけて崇拝の対象とした鏡です。文安二年(一四四五)と長禄二年(一四五八)の年号が刻まれています。(鷲宮神社社務所掲示より)
銅製御正体
下野国守護の小山義政が寄進した太刀です。「永和二年卯月十九日 義政」という銘が刻まれています。永和二年は西暦一三七六年。市の郷土資料館に写しを展示しています。(鷲宮神社社務所掲示より)
鷲宮神社文書付棟札一枚文書三点
国・県指定文化財以外の文書・鏡・棟札などの文化財です。徳川家康から拝領した銚子と盃や領地安堵の書状などがあります。(鷲宮神社社務所掲示より)
鷲宮神社関係資料
下野国守護の小山義政が寄進した太刀です。「永和二年卯月十九日 義政」という銘が刻まれています。永和二年は西暦一三七六年。市の郷土資料館に写しを展示しています。(鷲宮神社社務所掲示より)
鷲宮神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」