大佐倉将門口ノ宮神社|佐倉市大佐倉の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

大佐倉将門口ノ宮神社|佐倉市大佐倉の神社

大佐倉将門口ノ宮神社の概要

大佐倉将門口ノ宮神社は、佐倉市大佐倉にある神社です。大佐倉将門口ノ宮神社は、将門神社と口ノ宮神社との合殿社です。将門神社の創建年代等は不詳ながら、平将門の城砦跡と伝えられる当地に本佐倉城主の千葉氏が建立したと伝えられ、佐倉藩主堀田正信公は石鳥居を奉献したといいます。口之宮神社は、承応3年(1654)に佐倉藩主堀田上野介正信が、佐倉惣五郎(木内宗吾)夫婦及び四子の霊を祀るため口之宮明神と称して創建、佐倉惣五郎の100回忌にあたる宝暦4年(1754)は藩主堀田正亮公が、「宗吾」の法号を追贈しています。佐倉惣五郎は、公津村の名主で、佐倉藩の圧政に苦しむ村民を救うため、江戸幕府へ直訴、承応2年(1653)に夫婦及び四子は処刑されたものの、圧政は改められ、累代城主の祭祀を受けてきました(鳴鐘山東勝寺参照)。明治維新後の社格制定に際し、将門神社・口ノ宮神社共に無格社とされ、現在は大佐倉八幡神社の境外社とされています。

将門口ノ宮神社
大佐倉将門口ノ宮神社の概要
社号 将門口ノ宮神社
祭神 平将門、佐倉惣五郎(木内宗吾)夫婦及び四子の霊
相殿 -
境内社 -
例祭日 10月15日
住所 佐倉市大佐倉1929-1
備考 -



大佐倉将門口ノ宮神社の由緒

大佐倉将門口ノ宮神社は、将門神社と口ノ宮神社との合殿社です。将門神社の創建年代等は不詳ながら、平将門の城砦跡と伝えられる当地に本佐倉城主の千葉氏が建立したと伝えられ、佐倉藩主堀田正信公は石鳥居を奉献したといいます。口之宮神社は、承応3年(1654)に佐倉藩主堀田上野介正信が、佐倉惣五郎(木内宗吾)夫婦及び四子の霊を祀るため口之宮明神と称して創建、佐倉惣五郎の100回忌にあたる宝暦4年(1754)は藩主堀田正亮公が、「宗吾」の法号を追贈しています。佐倉惣五郎は、公津村の名主で、佐倉藩(堀田正信治世)の圧政に苦しむ村民を救うため、江戸幕府へ直訴、承応2年(1653)に夫婦及び四子は処刑されたものの、圧政は改められ、累代城主の祭祀を受けてきました(鳴鐘山東勝寺参照)。明治維新後の社格制定に際し、将門神社・口ノ宮神社共に無格社とされ、現在は大佐倉八幡神社の境外社とされています。

境内石碑による大佐倉将門口ノ宮神社の由緒

大佐倉将門口ノ宮神社再建の碑
将門神社 平親王将門大明神
平の小次郎将門は平安の時代坂東の地に桓武六代の帝系として生まれました。
一族の横暴と都で栄華を極める藤原摂関政治のもとに苦しむ民衆のために決起し瞬く間に坂東一圓を治め平親王と名乗りましたが志半ばにして非業の最期を遂げたと言われています。死後多くの民衆から坂東の英雄として追慕する声が高まり各地に将門神社が建立されました。
大佐倉の将門神社の創建は定かではありませんが桓武平氏の同族である本佐倉城主の千葉氏により建立(敷地三百坪)されたと伝えられています。石の鳥居は三百五十年前佐倉藩主堀田正信公により奉献されたと記録されています。
奥の宮の桔梗塚は将門の愛妻の桔梗の墓といわれていますが将門を偲びこの地には桔梗の花は咲かないと言い伝えがあります。
口の宮神社 口ノ明神
江戸時代高い税に苦しむ百姓を救うため将軍に直訴した佐倉惣五郎は義民として映画や芝居になり広く知られています。惣五郎百年忌に際し(二百五十年前)藩主堀田正亮公により口ノ明神に祀られ宝珠院が別当として祭祀を行ない佐倉藩の保護の下に下総一円の領民に崇敬されてきたといわれます。
大正八年本社拝殿等を失火により消失しましたが地元大佐倉の氏子世話人有志により総五郎の命日といわれる九月三日には宮なぎ行事として毎年供養と祭祀が行なわれています。石の大鳥居は佐倉市の指定文化財として観光マップのコースに入っています。
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二十一世紀を迎えたのを機に氏子相計り八幡宮御神木を素材として消失した社殿再建を画し大佐倉将門町崇敬者の格別の御奉賛の下にめでたく落慶を迎えました。
平将門木内惣五郎の偉業を讃え民衆とともに歩み身を捧げた生きざまに強烈なロマンと共感を甦らせこの将門山の歴史と文化遺産を後世に継承したい。
偉大な二人の先人の土に生きる魂を受け継ぎこの村は生産基盤整備事業の千葉県のパイロット地区として全国に先駆け近代農業の基礎を確立しました。
この事業の完成のために心血を注いで頂いた氏子役員を始め多くの奉賛者に熱い感謝をこめこの碑を建立する。(境内石碑より)

「印旛郡誌」による大佐倉将門口ノ宮神社の由緒

無格社口之宮神社
大佐倉區字将門にあり大山咋命を祭る承應三年佐倉藩主堀田上野介の創建堀田相模守様御代寶暦二年中宗吾の靈を合祀し年々二八兩月祭祀仕来り候處明治三年右靈御沙汰有之候に付佐倉氏曹に相還し候本殿並に社務所間口三間三尺奥行二間一尺拝殿間口三間奥行二間鳥居高一丈一尺境内六百坪(官有地第一種)氏子八十六人を有し神官栗原清にして管轄廳迄六里(神社明細帳)
〇(大日本地名辭典云)大佐倉に口野宮と稱する叢祠あり土俗之を公津村名主宗吾の靈祠と稱す而かも縁起詳ならず
〇(日本名勝地誌云)口の宮神社は内郷村大字大佐倉にあり承應三年佐倉の藩主堀田上野介正信の創建せし所にして義民木内宗吾夫婦及び四子の靈を祀る宗吾の履際に就いては世間既に幾多の著書あり書中細事に至ては往々彼此の徑庭なきに非ず誤りを傳ふるもの亦多しと雖も其の一身を犠牲に供し以て藩政の非を上訴せしが如きは婦女子も亦知る所にして今之を記するの要なし若し其の実傳の詳細を知らんと欲せば近頃上總の人加藤某が著す所の民權操志を讀むべし傳稱の錯誤等一々考訂し来つて余薀なきものの如し
〇明治三十六年境内に於て古墳發見惣五郎の義骨なりと稱するもの之を否定するもの粉々として決せずされど當局之を以て義骨ならずと鑑定す煩雑の厭なきに非るも参考のため左にその顛末を記さん
(顛末の第一~第四省略)
第五、結論
堀田正信朝臣惣吾郎大人を斎祀するの初に當り十八萬石の領内何れの處にか宮地あるべきに唯獨将門山のみを撰びて宮地と定めしは由緒なくして可ならんや曰く宗吾郎大人は肥後八代郡五家莊の産にして平氏の名門より出づ而して平親王将門まだ其の系統なり妙見大菩薩は千葉家の守護神にして千葉家亦平氏の系統なり大人の養家は千葉家の四天王にして木内家なり斯る因みあるを以て正信朝臣故らに将門山(将門の城砦にして千葉家代々の居城ゑり千葉家滅亡後佐倉城は今本佐倉城に移さる慶長十四年更に今の佐倉城の工事に着手す)を撰びて宮地と定めしのみならず正信朝臣は千歳不朽に垂れて敬意を旌はさんと石華表を建て年月及姓名を刻す其後降而寛政三辛亥年惣五郎大人百四十回忌の砌堀田大蔵大輔正順朝臣(大岡越前守と同町代にして徳川八賢士の一)亦地千歳不朽の碑を建て佐倉城の守護神領内の鎮守と崇敬せしこと其の碑銘に因て明かなり封建の世城主の祭祀を受けし神格の人尠しとせず然れども口明神宗吾道閑宮の如く厳粛なる祭典を受け千歳不朽に垂れて敬意を表せられしもの空前絶後殆ど世界に其の比を見ざるべし是れ蓋し見るべきものは此魂魄此土に鎮りしを以てなり此の由緒あるを以て此の経緯を旌はす敢て蝶々を要せず斯る理由あるを以て今般發見の古墳は宗吾郎の義骨と認定候
右之理由の有之候間惣五郎大人の遺骨と認定候段上申候也
明治三十六年七月一日 口ノ神社神掌 栗原清
千葉縣知事及佐倉警察署長宛
七月四日佐倉警察署より内務省及千葉縣廳の傳達あり左の如し
發見の古墳は御陵墓と認めざるに付き發掘の物品差出すを要せず又臨検するに及ばず
明治三十九年十二月廿日嚢に口之神社職より同社側六尺の距離に於て発掘したる遺骨は惣五郎を葬りたるものにして村役場に届出て其の稱號を宗吾道閑主命と改む(口之明神由来の秘密抄録)
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無格社将門神社
大佐倉區字将門にありて将門靈を祭る舊佐倉城主造立社殿間口一間奥行一間境内二百六十坪(官有地第一種)栗原清社掌にして氏子八十六戸あり管轄廳まで六里とす(神社明細帳)(「印旛郡誌」より)


大佐倉将門口ノ宮神社所蔵の文化財

  • 将門山大明神の鳥居とマテバシイ(佐倉市指定文化財)
  • 将門口ノ宮神社の樹林(スギ)(佐倉市選定保存樹)

将門山大明神の鳥居とマテバシイ

将門神社の創立年代は明らかでないが、本佐倉城を築いた千葉氏により建立されたと言われる。
後佐倉城主の厚い崇敬を受け、承応三年(一六五四)の遷宮に際し、堀田上野介正信がこの石の鳥居を寄進したのである。鳥居の型式は明神式で、貫の左右の先端部分が柱の外側で欠けている。
昭和五十二年七月十三日指定。
また鳥居前にあるマテバシイ(ブナ科)は、宝暦四年(一七五四)に藩主堀田正亮が口之宮明神を建立した時に植えられたものと伝えられ、昭和四十七年十一月六日に指定されました。(佐倉市教育委員会掲示より)

将門口ノ宮神社の樹林(スギ)

千葉氏が口ノ宮神社を建立した当時から境内林として維持管理されている。(佐倉市掲示より)

大佐倉将門口ノ宮神社の周辺図


参考資料

  • 「印旛郡誌」