淨光寺|臼井城主臼井興胤の長子道安和尚の養育地
淨光寺の概要
佐倉市羽鳥にある臨済宗妙心寺派寺院の淨光寺は、羽鶏山と号します。淨光寺は、臼井城主臼井興胤の長子道安和尚が生誕した暦応2年(1339)その養育施設として創建、羽鶏山持斎庵と号していたといいます。臼井興胤は、幼少時に鎌倉建長寺に匿われて養育されたことから、長子を仏門に入れると決めており、養育施設も仏堂となっていました。元禄11年(1690)に浄光寺と改称しています。境内大師堂は、六崎組十善講69番です。
山号 | 羽鶏山 |
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院号 | - |
寺号 | 淨光寺 |
住所 | 佐倉市羽鳥1110 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
淨光寺の縁起
淨光寺は、臼井城主臼井興胤の長子道安和尚が生誕した暦応2年(1339)その養育施設として創建、羽鶏山持斎庵と号していたといいます。臼井興胤は、幼少時に鎌倉建長寺に匿われて養育されたことから、長子を仏門に入れると決めており、養育施設も仏堂となっていました。道安和尚は、当地で7才まで養育され、その後円応寺2世となっています。また、当寺は元禄11年(1690)に浄光寺と改称しています。
「印旛郡誌」による淨光寺の縁起
浄光寺
羽鳥村字作にあり圓應寺末にして臨済宗なり十一面觀音を本尊とす圓應寺第二世道安和尚幼時清斎の地にして初め羽鶏山持斎庵と號せしが後道安の此處に退老するに至り寺となし今の名に改むと云ふ道安は臼井中興の城主興胤の長子なり興胤少時鎌倉の建長寺に依り養育せらる其城主たるに及び深く其の恩を思ひ長子を摾褓中より潔斎せしめて佛門に入らしめ以て高恩に報んため暦應二年當寺を建立す今寺に興胤の守持せし阿彌陀像並に太刀を蔵せり堂宇間口五間半奥行三間にして境内三百三十坪(民有地第一種)あり住職は窪田知にして檀徒四十八人管轄廳まで三里二十五町(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)
「佐倉市史」による淨光寺の縁起
淨光寺(羽鳥)
本尊十一面観音。前記のように臼井興胤は円応寺二世道安和尚を七才迄、ここに深斉所を建て乳母を斉戒して養育せめた所で、自ら持斉庵と号したが、後、元禄十一年城主戸田山城守の代、浄光寺の寺号を称したという。即ち開基は臼井城主興胤、開山は、興胤の長子道安和尚、創立は道安の生れた年の暦応二年である。道安については円応寺文古書に「道安和尚伝」があるがそれを要約すると「円応寺第二世道安和尚は興胤の長子である。暦応二年己卯十月二十四日誕生。我(興胤)嘗てより男子生れれば仏心禅師の弟子にすると決心していたので、領地の羽鳥に小宇を新造して乳母に斉戒せしめ俗塵を避けて養育に当らせた。道安長じて明敏、記憶もよく、修行を積んで開山仏真禅師のあとを嗣いで円応寺二世となる。そこでかつて幼年期に過した羽鳥の小字を持斉庵と号せしめと。道安は応永二年乙亥七月廿三日、五十八才にて遷化したが、浄光寺開山の碑に(宝暦二年)にも、右のことを簡単に刻んである。(「佐倉市史」より)
淨光寺の周辺図
参考資料
- 「印旛郡誌」
- 「佐倉市史」