大聖院|佐倉市鏑木町にある真言宗豊山派寺院

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大和田山大聖院|佐倉七福神の大黒天・布袋尊

大聖院の概要

佐倉市鏑木町にある真言宗豊山派寺院の大聖院は、大和田山と号します。大聖院は、平賀本土寺九世日意上人が文明3年(1471)に創建したといいます。佐倉七福神の大黒天・布袋尊、六崎組十善講17番です。

大聖院
大聖院の概要
山号 大和田山
院号 大聖院
寺号 -
住所 佐倉市鏑木町188
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



大聖院の縁起

大聖院の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代に創建したといいます。佐倉七福神の大黒天・布袋尊です。

「佐倉七福神栞」による大聖院の縁起

大和田山大聖院(だいわださんだいしょういん)と称し、鎌倉時代に開山した真言宗豊山派の寺院です。本尊の大日如来は、佐倉市指定有形文化財に指定されています。宮小路武家屋敷奥に位置し、参詣者や散策の姿が多く見られます。(「佐倉七福神栞」より)

「印旛郡誌」による大聖院の縁起

大聖院
鏑木村字雲井戸にあり眞言宗にして千手院末なり大日如来を本尊とす由緒不詳堂宇間口七間奥行五間半境内七百二十坪(官有地第四種)あり住職は飯宗快寶にして檀徒三百人を有し管轄廳まで四里半なり境内佛堂一宇あり即
一、観音堂。大悲観世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物は一間半四面(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)


大聖院の縁起

  • 木造大日如来坐像(佐倉市指定文化財)
  • 佐倉藩の刀工・細川忠義の墓

木造大日如来坐像

本像は、大和田山大聖院の本尊です。寄木造、漆箔、玉眼嵌入、髷なしで宝冠をかぶっています。前方観に鎌倉末期様式を示す破綻の少ない優しい像容で、佐倉市内では有数の仏像彫刻です。(境内掲示より)

佐倉藩の刀工・細川忠義の墓

下総国佐倉藩の刀工の歴史は、「鹿島山勝全寺由来記」によれば、千葉家の時代鹿島幹胤が当時築城に入った鹿島城の東に刀剣鍛冶細工所を置き、その地を「鍛冶瑳玖」と呼んだことに始まるといいます。幕末期この鍛冶瑳玖では、十余名の刀工が鍛冶に励んでいました。当時門流には手柄山流と水心子流の二派があり、佐倉藩の刀工は主に水心子流に属していました。
佐倉藩のおかかえ刀工細川忠義は、水心子流の初代水心子正秀の高弟であった二代細川忠義の次男として、文化十二年(一八一五)江戸に生まれました。本名を近造といい、父方の生家下野国(栃木県)鹿沼宿の叔父正平のもとで育てられ、刀工としての修業を積みました。初期銘を正行と名乗りました。
天保六年(一八三五)正行二十一歳の年江戸に出府、父正義のもとで更に修業を積み、二十六歳の天保十一年(一八四〇)父正義同様に津山藩おかかえの刀工となり、録高三人扶持小役人の身分となりました。
嘉永二年(一八四九)忠義三十五歳の年、佐倉藩主堀田正睦に召しかかえられ、録高十五俵二人扶持会所物書の身分を賜わり、今日に残る数々の名刀を作刀しました。明治三年(一八七〇)七月六日没。行年五十六歳。法号「劔壽院宝刀索翁居士」。
忠義の子義則は父の跡を継ぎ佐倉藩刀工となり、慶応から明治にかけて作刀を鍛冶瑳玖の地で行っていました。大正八年(一九一九)十二月二十三日没。行年七十二歳。
忠義、義則父子ともにここ鏑木小路の大和田山大聖院に静かに眠っています。(佐倉市観光協会・大和田山大聖院掲示より)

大聖院の周辺図