龍澤山長源寺|うすい花の寺八ヶ寺の枝垂れ桜
長源寺の概要
佐倉市臼井田にある浄土宗寺院の長源寺は、龍澤山と号します。長源寺は、小弓大巌寺を開山し、増上寺第九世を務めた道誉貞把上人が、隠居地として当地に来て元亀元年(1570)開山、瀧沢山玄忠院新大巌寺と号したといいます。寛永年間(1624-1644)に龍澤山長源寺と改号しています。開山の道誉貞把上人は、幼少の頃愚鈍と評され、学業もはかどらなかったものの、成田不動に参籠して以降聡明叡智となり、大出世を果たしたことから、江戸期には成田不動と所縁が深かったといいます。うすい花の寺八ヶ寺の「枝垂れ桜の寺」です。
山号 | 龍澤山 |
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院号 | - |
寺号 | 長源寺 |
住所 | 佐倉市臼井田818-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長源寺の縁起
長源寺は、小弓大巌寺を開山し、増上寺第九世を務めた道誉貞把上人が、隠居地として当地に来て元亀元年(1570)開山、瀧沢山玄忠院新大巌寺と号したといいます。寛永年間(1624-1644)に龍澤山長源寺と改号しています。開山の道誉貞把上人は、幼少の頃愚鈍と評され、学業もはかどらなかったものの、成田不動に参籠して以降聡明叡智となり、大出世を果たしたことから、江戸期には成田不動と所縁が深かったといいます。明治6年臼井尋常小学校が当地に開校しています。
「印旛郡誌」による長源寺の縁起
長源寺
臼井田町字宿内にあり浄土宗鎮西派に屬す阿彌陀如来を本尊とし龍澤山と號す元龜元庚午年十二月創立開山貞把和尚にして千葉郡小弓大巌寺末にて道譽上人を開基とす初め龍澤山玄忠院大巌寺と號したりしを寛永中今の號に改む道譽は泉州日根郡の人幼にして薙染し道年甚堅し然ども性魯鈍にして學業甚進まず一麻下總に来り成田不動尊に詣て懇祈深禱三週日夢に明王の示現を得て聡明叡智の大徳となり洽く道俗を化し小弓大巌寺の開祖となる後移りて三縁山第九世の法席を繼ぐ永禄六年小弓に歸住し更に臼井に来りて此處に退老す天明二年十二月七日端坐合掌して寂す壽六十寺内に葬る寺に不動明王を安置す是道譽守持のものなり古来成田不動の江戸に出開帳の擧あるや毎に此寺を以て宿舎に充つ蓋舊縁あるを以てなり寺は舊と東方の丘上にありしが安永中火災あり殿堂悉燒失し天明元年今の地に再建す然れども寺縁乏しく累年無住にして堂宇破損し遂に諸堂置く所なきに至る安政六年小弓四十九世善芳上人資を出して營繕し且金百両を寄附して寺の資金をなし爾来毎年開祖上人の爲に十夜會佛を行ふ今は堂宇間口六間半奥行五間境内二百八十坪(官有地第一種)森徹冏を住職とし檀徒七十七人管轄廳まで四里十八町なり(寺院明細帳郷土誌)(「印旛郡誌」より)
「佐倉市史」による長源寺の縁起
長源寺(臼井田町)
小弓大巌寺末であった。本尊阿弥陀如来。元亀元(一五七〇)年十二月、道誉上人を開基とする。初め竜沢山玄忠院新大巌寺と号したのを寛永年間に今の竜沢山長源寺に改めたとされている。
道誉の伝記については成田参詣記には次のように述べている。生地は和泉国日根郡鳥取庄波宇午村(永正十二年九月二十八日生)、十三才で仏門に入った(松裏・寺院誌より)。法統は芝増上寺一世酉誉聖聡の系統である。この聖聡は室町時代に入り関東の浄土宗発展の基礎を築いた一人で芝増上寺を改宗させるなど教団の発展に尽力した人材である(笠原一男・新行紀一)。この聖聡が開山(明徳四年、一三九三) となった増上寺は近世には将軍徳川家の菩提寺でもあった。
長源寺開山道誉について今少し附け加えると、彼が千葉の小弓に来て大巌寺の開山となったのは天文二十(一五五一)年で開基は千葉氏の族である原胤栄である。その後、道誉は増上寺第九世の法席を継いだが(酉誉聖聡-聡誉酉仰-音誉聖観-隆誉光冏-天誉了聞-僧誉普雲-親誉周仰-杲誉天啓-道誉貞把(以下略、読史総覧より)、永禄六年、小弓に帰住して八年の後、更に臼井に来り前記のように元亀元年に長源寺の開山となった。道誉が原胤栄の加護で大巌寺を開創し更に臼井に増上寺を拠点として教勢拡張のため浄土宗寺院を開いたことは、臼井氏に代って臼井城主となっていた原氏の深い因緑によるものであろうが、その辺の経緯は明らかにし得ない。道誉の墓は長源寺草創期の境内続きである山地にある。全長七尺程の五輪塔で、天正二年十二月七白と刻まれ、他の一基は天保三年に建てられ”道誉上人・天正二戌十二月七日寂” とある。また当寺には鎌倉末期の作と見られる善光寺式三尊仏が安置されている。(「佐倉市史」より)
長源寺の周辺図