海養山金臺寺|里見義康の伯父豪誉九把が中興
金臺寺の概要
浄土宗寺院の金臺寺は、海養山龍勢院と号します。金臺寺は、文明8年(1476)に創建、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭昌誉順道を迎えて開基したといいます。里見義康の伯父豪誉九把が当寺4世を勤めるなど里見家の尊崇厚く寺領60石を受領、また江戸期には家康の室・良雲院殿の実弟檀誉上人が当寺6世を勤め、安房国浄土宗寺院の觸頭を一時期勤めていたといいます。
山号 | 海養山 |
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院号 | 龍勢院 |
寺号 | 金臺寺 |
住所 | 館山市北条1201 |
宗派 | 浄土宗 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金臺寺の縁起
金臺寺は、文明8年(1476)に創建、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭昌誉順道を迎えて開基したといいます。里見義康の伯父豪誉九把が当寺4世を勤めるなど里見家の尊崇厚く寺領60石を受領、また江戸期には家康の室・良雲院殿の実弟檀誉上人が当寺6世を勤め、安房国浄土宗寺院の觸頭を一時期勤めていたといいます。
「館山市史」による金臺寺の縁起
当寺は、龍勢院海養山金台寺と称し、人皇百四代後土御門天皇の文明八年丙申(一四七六)の創立で、後柏原天皇、永正二年(一五〇五)に神奈川県鎌倉光明寺の学頭昌誉順道を迎えて開基とした。本堂正面には、丈六の阿弥陀如来を本尊とし、観音、勢至を脇侍とし、善導、円光両大師の像が安置してある。別に、徳川家康の室、良雲院殿の御厨仏聖観音を祀っている。その後の住職には、法将相続き、特に第四世豪誉九把は、館山城主里見義康の伯父に当り、里見家の尊崇も厚く、寺領六十石、並びに、仏納米として五十俵を毎年賜わった。豪誉九把は、在住二十四年、初め鎌倉光明寺で修学し、浄土の宗義を究め、濁世末代の修行の要路は、ひとえに念仏にあると、無学文盲の者にもわかり易く、念仏の有難さを説いたので、九把の教化に去って浄土宗に入る者も多かった。当国は、もともと、日蓮誕生の地であって日蓮宗徒が多く、当時は、浄土宗寺院は、ほとんどなく、浄土宗を広めるのに、苦労したことと考えられる。九把は元和九年(一六二三)癸亥四十三歳で入寂、金台寺中興の祖とあがめられる。第六代檀誉上人は、家康の室、良雲院殿の実弟であった関係で、徳川家の庇護を受け、境内弐町四方、諸堂宇建坪百九十余坪におよんだ。檀誉上人は、その後、江戸浅草西福寺に転住、さらに、大本山京都黒谷金戒光明寺の住職となって入寂した。
第七世正誉上人は、東京芝、大本山増上寺業誉上人の儀を受け、房州の録所(一国一本寺触頭として将軍家直参寺格)と定められ、三年に一度正月、登城、年賀の礼を許された。かように当寺は、房一州の録所としで寺門栄え、塔頭二字、専明院、西修院を擁し、末寺に、浄蓮寺、蓮台寺等七カ寺、配下の寺に、量寿院、心光寺等五カ寺があった。しかし、その後、大巌院と房州の触頭を争い、住持の代替毎に増上寺へ訴えたが、宝永七年(一七一〇)大巌院を一国一寺の触頭とし、今後金台寺を触下から除くという増上寺からの通達によって長年の紛争はようやく解決した。その経緯を書いた古文書が、現在大巌院に保存されている。
なお、当寺に、徳川三代将軍家光以下歴代将軍の朱印状の写が保存されてある。現在の本堂は、大正十二年の関東大震災一で崩壊し、中川仏山が、本堂の再建を念願し、檀信徒の協力を得て、昭和二年建坪八十坪の大殿を完成した。
寺宝
一良雲院殿御厨仏聖観音像一躰
一徳川将軍家歴代朱印状写
その他、境内に念仏講、庚申講等の碑がある。中でも本堂南側の墓地に一種変った墓石がある。斉藤東湾の『安房志』に、金台寺に寛文年間の大海嘯による溺死者の碑があると、記されてあるが、おそらくこの碑のことと思われる。というのは、この碑のどこにも、溺死者の供養碑であることは明記されてない。しかし、寛文の記年と法名が沢山墓身の四面に彫り付けられ、これ等の霊の菩提を弔う意味の経文が記されてあるところから、この碑であろうと推測される。碑は、四角な塔身に笠石を乗せ、その塔身に溺死者と思われる人々の法名が刻まれている。たとえば、妙信、妙久など二字名が多い。塔身の四方の正面中央に、左の碑文が刻してある。法名の中には磨滅して判読しがたいところもある。
于時寛文二年正月廿五日于日導師正誉上人南無阿弥陀仏(一切精霊生極楽、上品蓮台成正覚菩提行願不退転、引導三有及法界)
と経文が書かれ、一切の精霊が極楽に生れて、仏になるように祈願し、その両側に、前記のような法名が、三面おのおの二百名づつ、ただ北側の一面だけ二百十四名が刻まれてある。これは、第七代正誉上人が導師を勤めて供養して建てられた供養塔であることは間違ない。しかし、いつの津波による溺死者の供養塔であるか判明しない。『安房郡誌』の災異雑事の記載に、慶長六年十月十六日房総の地に大地震があり、津波が起って多数の溺死者を出した事と、元禄十六年癸未十一月二十三日に関東諸国に大地震が起り、殊に安房地方は、被害が甚大で津波による多数の溺死者のあったことが記載されてあるが、寛文年間の地震による災害記事は見当らない。もし、慶長六年の大地震による溺死者の供養碑と考えると、寛文二年まで六十一年も経過しているので、妥当でないと思われる。しかし、『徳川実記厳有院殿御実記』巻二十二、寛文元年(一六六一)五月二十九日の条によると、大地震があったので、日光へ飛脚を立て、津波の心配もあったので、細心の注意をするようわざわざ、通達を出している。また、同年十一月七日の条にも地震の記事があるところから考えると、当時度々地震が起ったことがわかる。しかし、今日と違い交通、通信機関の発達しない当時では、地方の一寒村に起った災害が中央に知れるまでには、相当の月日を要し、あるいは、知れずに終ったこともあったと推察される。当時の北条は、一寒村に過ぎず、地形上から見ても、海岸は今より深く湾入していたことであろう。
要するに、この碑は、寛文元年五月二十九日の大地震の津波による溺死者の供養塔でないかと想像されるが、正確な文献がないので、軽々しく断定することはできない。(「館山市史」より)
海養山金臺寺の周辺図