那古寺|館山市那古にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

補陀落山那古寺|坂東第三十三番結願、安房国札第一番

那古寺の概要

真言宗智山派寺院の那古寺は、補陀落山普門坊千手院と号します。那古寺は、元明天皇の命に依り僧行基が養老元年(717)が創建したと伝えられ、正治年間(1199-1200)秀円の代に天台宗から真言宗に改めたといいます。源頼朝・足利尊氏・里見氏の崇敬を受け、江戸期には鶴ケ谷八幡神社の別当を兼ねていました。坂東第三十三番結願所、関東八十八ヶ所霊場56番、安房国札34ヵ所観音霊場第一番の札所としても著名です。

那古寺
那古寺の概要
山号 補陀落山
院号 千手院
寺号 那古寺
住所 館山市那古1125
宗派 真言宗智山派
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



那古寺の縁起

那古寺は、元明天皇の命に依り僧行基が養老元年(717)が創建したと伝えられ、正治年間(1199-1200)秀円の代に天台宗から真言宗に改めたといいます。源頼朝・足利尊氏・里見氏の崇敬を受け、江戸期には鶴ケ谷八幡神社の別当を兼ねていました。坂東第三十三番結願所、安房国札34ヵ所観音霊場第一番の札所としても著名です。

境内掲示による那古寺の縁起

那古山の中腹に立つ坂東三十三観音札所の結願所で、創建は養老元年(717年)に行基が海中より得た香木で千手観音を刻み、ここに一宇を建てて祀ったのが始めと伝えられています。
以来、源頼朝をはじめ、足利尊氏、里見義実、徳川氏らの武家の信仰を集め栄えました。本尊の木造千手観音立像は、高さ1.5mのクスの木の一木造です。
ほかに、鎌倉中期作の銅造千手観音立像や縫字法華経普門品など多数の宝物があります。境内の多宝塔は、宝暦11年(1761年)の建立で、三間四方銅板葺で構造や彫刻装飾に、江戸中期の様式を示す建造物で、大日如来像が安置されています。(境内掲示より)

「館山市史」による那古寺の縁起

那古観世音は、坂東第三十三番納札所及び、安房国札第一番の札所で、那古山の中腹にあって、鏡ケ浦の景観を眼下に眺め、風光明びで、補陀山普門坊千手院と号する『補陀羅山観縁起』には、
「人皇四四代元正天皇養老元年(七一七)天皇病にかかり、僧行基に命じて平癒を祈らせた。時に行基霊夢を感じて、この地へ来て異木を海中から得て、自ら千手観世音菩薩の像一躰を彫刻し、丹誠をこめて祈禱したところ、たちまち感応があって、天皇の病が平癒した。これによって天皇大いに感喜され、山頂に伽藍を造営せしめ、長く勅願所とせられた。今、山上の古屋敷と称する所は、この遺跡であるという。その後最澄の弟子慈覚、承和五年(八三八)勅命によって、入唐、在唐十年、帰朝の船中で暴風に遇い、
一心に観音を念じ呪願すると、身丈け七尺計りの沙門が来て、一足を海中に下し、楫を取ると、風が静まり、海上が穏やかになったので、慈覚が現れた所の人に問うていわれるのに『聖者何れの処から来て救済し給う』と、答えて曰く、『われ、郡含補陀落山に住す、汝が難を救わんために来る』と、慈覚承和十四年(八四七)帰朝後、当山を訪ね、
尊像を拝すると、船中で現れた所の尊像であった。そこで、この山に住まわれること多年、ある夜、観音、慈覚に告げて曰く、『此上に岩窟あり、わが像を彼の所に安んぜよ』と、慈覚、めざめて仰ぎ見るに、瑞雲来って巖に掛り、金光を放って窟を照す。
至って見れば、大悲の種字中に浮べり、これによって衆人に告げて、尊像を彼の窟に移し、これまことに、風景絶倫の地である」
と賛美したとあるが、もちろん信ずるに足りない。那古寺は、初め天台宗であったが、その後正治年間(一一九九ー一二〇〇)第一世秀円に至って、真言密教の道場となった。よって開基は行基、慈覚を中興と敬っている。
当寺の境内は、一、七〇〇坪、本堂、三重塔、鐘楼、地蔵堂、仁王門、阿弥陀堂、閻魔堂の七基からなり、伝える所によると、「源頼朝、相模国真名鶴崎から当国へ渡った時、小勢七人、観世音の祥瑞を被り、大勢をばんかいして、天下統一の大望を遂げたので、七堂伽藍を建立し、仏供料として数拾町歩を寄附せられた」という。それ以来、源頼朝、足利尊氏、里見義実等の尊信厚く、『那古寺世代記』によると、第二十二世義秀(里見義実三男)、第二十三世熊王丸(里見実堯三男)は、里見中興の英主といわれる義堯の弟であることから見ても、当寺が領主里見氏との関係がいかに密接で、当時勢力のあったことが推察される。徳川家康になって、鶴ケ谷八幡神社の別当を兼ね、寺領百九石二斗、八幡領百七十一石五斗を管理した。この社領をめぐって、後に那古寺と八幡神社神主との間に争いが起っている。その聞の事情を書いた文書が那古寺に保存されている。
当寺は、元禄十六年(一七〇三)十一月の大地震が堂宇を全壊したので、第三十九世憲長の代に、幕府は、岡本兵衛を奉行として、観音堂を現在の地に移して再建に着手し宝暦九年(一七五九)に完成した。その時、多宝塔、六角堂、大日堂も新造された。
第四十世頼栄は、本堂、宮殿を建立し、第四十七世澄意は、阿弥陀堂、鐘楼堂、仁王門を新造した。
しかし、明治維新の大変革で寺領は、没収され、かろうじて寺門を維持、たまたま、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災に遭遇して、被害を被った。第五十七世亮船は、早速檀信徒の協力を得て、まず、観音堂を再修したが、倒壊した仁王門、鐘楼堂、閻魔堂、客殿、庫裡等は、その後、大正十三年にまず、庫裡が再建され、続いて、昭和四年客殿が再建された。第五十九世亮恵は、先師の志を継いで、昭和三十六年三月、仁王門を再建し、専ら文化財保護に意を用い、堂宇の内外を整備した。現在、観音の霊地として、また、観光地として寺門ますます隆盛で、当市における真言宗第一の名刺である。
寺宝
一銅製千手観音立像一躰(千葉県指定文化財)
一多宝塔一基(千葉県指定文化財)
一縫字法華経普門品一巻(千葉県指定文化財)
一木彫本尊千手観世音菩薩像一躰(市指定文化財)
一絹本僧形八幡軸物一幅
一孔雀明王経一巻
一源氏系図及び補陀落山那古寺並びに観音縁起
一観音堂並びに厨子(宝暦九年建立)(市指定文化財)
一那古寺八幡宮棟札目録並びに棟札写
一那古寺世代記(「館山市史」より)

「稿本千葉県誌」による那古寺の縁起

補陀落山千手院那古寺,
同郡(舊平郡)那古町大字那古字寺町に在り、境内三百三十坪、眞言宗、寺はもと山の半腹に在りしが元禄十六円關東地震の時堂宇壊廢せしを以て今の地に移せり、寺北小山あり、俗呼んで那古山と云ふ、即ち補陀落山なり。寺傳に云ふ、養老元年天皇不豫にましまし、僧行基に勅して之を祈らしめ給ふ、行基感ずる所あり、此の地に来りて異木を海中に得千手観音の像を造りて奉禱す、天皇乃ち快癒し給ふ、是に於て資財を費ひ堂宇を造營せしめ給へり、是れ即ち本寺なり、故に其の荘嚴なること國中比ひ稀なりと。明治維新前は寺領高百九石二斗を有し、又北條町大字八幡鶴谷八幡宮の別當に充てられ、其の社領高百七十一石五斗を管理せり、以て昔時の盛なりしことを推知すべし。近時衰運に屬しまた舊觀なし、正治二年より寛文元年まで山城國嵯峨大覺寺の末寺となり、其の後本郡國分村大字府中寶珠院の末寺となれり。
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那古観音堂,
同町大字那古北方の山に東西二峰あり、南より之を望めば凹形を爲し老松森鬱たり、堂は其の中間の山腹に在り、那古寺の境内に屬す、其の創建は那古寺の條に在り。二王門あり東に面す、堂は其の正面に當りて南に面す、二層塔・六角堂其の他附属の堂塔多し、堂宇壮麗にして本州佛閣中参拝者の多きこと小湊誕生寺に亞ぐ。(「稿本千葉県誌」より)


那古寺所蔵の文化財

  • 銅造千手観音立像(重要文化財)
  • 木造阿弥陀如来坐像(千葉県指定有形文化財)
  • 那古寺多宝塔附木造宝塔(千葉県指定有形文化財)
  • 那古寺観音堂附厨子(千葉県指定有形文化財)
  • 木造千手観音立像(館山市指定有形文化財)
  • 那古山自然林(市指定天然記念物)
  • 那古寺の大蘇鉄(市指定天然記念物)

銅造千手観音立像

千手観音、詳しくは千手千限自在菩薩といい、もっとも複雑な形をした観音です。一般的には、頭上に11面の顔をいただき、千の手を持ち、それぞれの手にある眼で広く老若男女を救うといわれ、人々から深く信仰されてきました。
千手観音といっても、手の数は、中央の2手の他に40の手を持つものがほとんどです、「千手」とは1本の手で25の世界の老若男女を救う、つまり40x25=1000ということに由来します。
この像は、本尊と同じ千手観音菩薩像ですが銅造です。頭上に11面の顔をいただき、42の手持っています。頭部から躯幹は一度に鋳造され、胸前の合掌手と腹前え組み合わせている宝鉢手は別に鑄造し、肩の部分で取り付けられています。
左右の手は、前6手、中7手、後6手と3段に分かれ、前後の手を中段で釘で止め、中段を体部に差し込んでいます。鋳上がりは優れ、一部に当初の鍍金が残っています。
髪は一本一本毛筋を立て、写実的な描写がなされています。また、その引き締まった体部の肉取りや、にぎやかな衣文の構成などから、作家は鎌倉初期の慶派に学んだ、鎌倉中期の仏師であるとされています。
顔は目・鼻・口を集中させ、頬に張りを持つ厳しい表情で、肩先と腹部を強く突き出した体部の造りから、作家の個性がうかがわれ、13世紀前半に制作された金銅仏の優品です。
脇手右前列の接合部には、願主のものと思われる「平胤時」という人名が刻まれています。これは「千葉大系図」に、源頼朝の御家人千葉常胤の孫とある千葉八郎胤時と考えられています。
この人物は、「吾妻鏡」嘉禎3(1327)年4月19日条から、宝治元(1247)年5月14日条にかけて、9回にわたり将軍に供奉する騎馬の随兵としてその名が見え、鎌倉時代中期とされる像容とも合致します。東国武士の信仰による、確実な造像例としても貴重です。(館山市教育委員会掲示より)

木造阿弥陀如来坐像

阿弥陀堂に安置される、像高140.3cmの半丈六仏です。一本の割矧ぎで、内刳りがされています。台座はすべて江戸時代の後補です。
面長で背の高い上半身にくらべて、膝の張りが狭い印象がありますが、頬や体、両膝の肉受けには安定した趣があります。全体におだやかな起伏のある体を、平行で淺井ひだを刻んだ衣で包んでおり、一見して平安時代の雰囲気があふれていますが、表情はかたく、明るさが消え、目などに強さがみられるところから、平安時代末期か遅くても鎌倉時代初めに制作されたことをうかがわせます。
胎内には元凶4年(1324)に、高橋景綱と平重行が檀那となって修理したことを示す墨書銘があるほか、像底には元禄地震後の那古寺再建期にあたる明和4年(1767)の修理銘が残されています。
この鎌倉時代後期と江戸時代に行われた修理の際に、割り首が施されていた頭部が差し首状に改変され、彫眼であった両眼が玉眼状に改変されました。平成23年におきた東日本大震災で頭部が落下し、過去の修理箇所の傷みも著しかったことから平成25年度に東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻保存修理彫刻研究室による全解体修復が行われ、後世に改変された両眼などの修理痕を修繕しました。
なお、この像は通常公開されていません。(境内掲示より)

那古寺多宝塔附木造宝塔

那古寺多宝塔は、塔の中心となる心柱にある墨書銘から、宝暦11(1761)年に建てられたことがわかります。県内の多宝塔は、南房総市石堂寺と那古寺の2例しかないため、江戸時代中期の那古寺多宝塔は、室町時代末期の石堂寺多宝塔(重要文化財)と比較して、建築技術の推移を知る上でも貴重な建造物です。三間多宝塔で、下層は方形、上層は円形です。その上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせています。
下層の廻縁には高欄が付けられ、柱上を結び組物を支える台輪の上の斗組は二手先で、斗が前方に2つ出て桁を受けています。先端に、象鼻と呼ばれる彫刻をつけています。
この出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に、方形の下層と円形の上層を結合する亀腹があります。この亀腹は、全国的に例が少ないクスの素木造です。上層の出組は四手先で、屋根の重さを受けるため、組物の途中に斜めに突き出して斗を押し上げる尾垂木には、江戸時代中期によくみられる龍鼻という彫刻をつけています。
本来は上部構造の重みを支えるものであった本蟇股に、装飾の負う植物彫刻が施されている点などは、江戸時代の特色をあらわしています。また格天井裏の、緩やかに湾曲した装飾的な梁である虹梁の上に、方柱の心柱を建てていることや、通常は塔の心柱の周囲に配される4本の四天柱の前方2本が欠け、二天柱となっていることが、この多宝塔の特徴です。
四方にある入口は両開きの板戸で、内部中央の須弥壇に木造宝塔が据えられ、その後ろには火燈窓を付けた来迎壁があります。この木造宝塔は、多宝塔と同時期のもので、方形板葺、軸部は球形で四面を火燈形にくり抜き、内部に大日如来を安置しています。
この多宝塔は、元禄16(1703)年の元禄地震で、壊滅的な被害を受けた那古寺の再建に精力的に取り組んだ伊勢屋陣右衛門を願主に、府中(現在の南房総市)の上野庄右衛門、那古の加藤清兵衛など、地元の大工によって建てられたことが心柱にある墨書銘からわかり、地域の歴史を物語る資料としても貴重です。(館山市教育委員会掲示より)

那古寺観音堂附厨子

那古寺観音堂は、千葉県を代表する江戸時代中期の寺院建築です、館山湾を見渡す那古山の中腹に建ち、海上の保安や航海の安全を祈る対象としても信仰され、「平成の大改修」にあわせて修理された本尊「木造千手観音立像」(館山市有形文化財)などが安置されています。
建築の時期は、今まで宝暦8(1758)年とされてきましたが、元禄16(1703)年の大地震で、那古寺の堂塔のすべてが倒壊した後、観音堂の再建は享保17(1732)年に完了していたことが「平成の大改修」でわかりました。
間口5間、奥行5間のいわゆる五間堂で、正面に向拝があります。柱は、床から上は円柱ですが、床下は八角に面取りされています。また、屋根の切妻のところにある妻飾りには邪鬼の彫物が彫られています。
観音堂内にある欄間彫刻の刻銘に、宝暦9(1759)年、江戸蔵前の札差大口屋平兵衛や、那古寺の釜屋太左衛門等によって奉納されたことが記されています。内陣中央の厨子は、棟札から天明元(1781)年の作であることがわかりました。軒下の斗組は、すべて龍鼻がつけられ、屋根は入母屋造りで、三方に唐破風をつけています。総ケヤキ作りで、素木の入念な作です。(館山市教育委員会掲示より)

石造釈迦如来立像

胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像で、合掌印を結び、衣文の彫法も浅く整然としている。慈愛に満ちた童顔で、現世を静かに見守る姿は素晴らしく、かなりの石工の手によるものであることがうかがわれる。
釈迦如来の印相は通常説法印であるが、この像のように合掌印は珍しい。これは石刻りの制約から彫り易さや、強度の点を考慮したものと思われる。
台座は蓮華座で、銘文によると元禄四(一六九一)年に造立したとある。市内に現存する石仏中最大のものでかつ彫技も優秀である。(館山市教育委員会掲示より)

補陀落山那古寺の周辺図