土津神社。耶麻郡猪苗代大字見彌山の神社

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土津神社。初代会津松平藩主保科正之公(土津靈神)を祀る社

土津神社の概要

土津神社は、福島県耶麻郡猪苗代大字見彌山にある神社です。土津神社は、神道精神の復興に大きく貢献した初代会津松平藩主保科正之公(璽号土津靈神)が、死後に磐椅神社の末社として自分を祀るよう遺言されたことから、延宝3年(1675)に創建、豪華絢爛な社殿だったといいます(戊辰戦争で焼失)。現在は歴代藩主も併せ祀られています。

土津神社
土津神社の概要
社号 土津神社
祭神 土津大明神正之公
相殿 高良玉垂大明神(武内宿祢)、三代~九代歴代藩主
境内社 -
祭日 -
住所 耶麻郡猪苗代大字見彌山3
備考 -



土津神社の由緒

土津神社は、神道精神の復興に大きく貢献した初代会津松平藩主保科正之公(璽号土津靈神)が、死後に磐椅神社の末社として自分を祀るよう遺言されたことから、延宝3年(1675)に創建、豪華絢爛な社殿だったといいます(戊辰戦争で焼失)。現在は歴代藩主も併せ祀られています。

境内掲示による土津神社の由緒

土津神社
土津神社は二代将軍秀忠の第四子会津松平家の初代藩主保科正之公(一六一一~一六七ニ)をお祀りした神社である。
正之公は吉川惟足、山崎闇斎、横田俊益等当時の最高学者を師とせられ殊に当時殆んど絶えなんとした日本古来の卜部神道の大家吉川惟足を師とせられ四重の奥秘を受け継がれ体得されると共に領内の政治、産業、文化、教育、武道の基盤を定められ是が実践を図られた。
幕府には神道方を置き、神道精神の復興に大きな貢献をされた為、土津靈神の璽号を受けられたのである。(境内掲示より)

境内掲示による土津神社の由緒

土津神社
土津神社は磐梯山の南東のふもとにあり、今から20万~30万年前の磐梯火山の噴出物が堆積した斜面上に立地しています。
徳川三代将軍家光の異母弟で、徳川四代将軍家綱も補佐した会津藩松平家の初代保科正之を祀った神社です。正之公は、磐梯山の神、磐椅明神を祀った古社・磐椅神社の末社として自分を祀るよう遺言され、その社は没後1675(延宝3)年に土津神社として創建されました。
造営された社は、日光東照宮と比べられるほど絢爛豪華なものだったといいます。残念ながら創建当初の建物は、戊辰戦争で焼失してしまいました。
現在、神社、奥の院(保科正之公の墳墓)ともに会津藩主松平家墓所として国指定史跡となっています。
土津神社の墓石・石碑・石灯篭など江戸時代に作られた石造物のほとんどに、磐梯火山や猫魔火山を形成している安山岩溶岩が使われています。(磐梯山ジオパーク協議会掲示より)


土津神社所蔵の文化財

  • 土津神社境内(国指定史跡)
  • 土津神社霊神之碑(町指定重要文化財)

土津神社霊神之碑

会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が撰文し、字数は一九四三、筆者は当時第一等の能筆家土佐左兵衛高庸である。
神社の碑石としては日本最大のもので石柱の高さ一丈八尺、幅六尺、厚さ五尺余、土台の亀石は長さ一丈六尺、幅一丈一尺三寸、厚さ二尺五寸で、竿石は八田野(河東町)、亀石は猪苗代町土町の東から取り出した。
伝説によると、初め亀石は南向きに置かれたが、眼下には猪苗代湖が見え、亀は一夜のうちに湖まで這い出してしまった。そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すことはなかったという。
亀は中国伝来の瑞獣の一つで、松平家の将来の繁栄を祈願したものと考えられる。(猪苗代町教育委員会掲示より)

土津神社の周辺図