恵隆寺。福島県河沼郡会津坂下町にある真言宗豊山派寺院

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金塔山恵隆寺。旧高寺・地名発祥の小金塔・立木観音堂

恵隆寺の概要

真言宗豊山派寺院の恵隆寺は、金塔山と号します。恵隆寺は、欽明天皇元年(540年)に高寺として創建、大同3年(808年)に弘法大師が開創したと伝えられ、石塔山恵隆寺と称して七堂伽藍をととのえ、寺門は見明に、高寺への入口にあたる当地には小金塔を建立していたといいます。源平合戦に際して高寺は解体され、小金塔のあった当地に堂宇を再建、観音堂や大日堂を整え、慶長16年の会津大地震で荒廃した堂宇も再建したといいます。立木観音堂の千手観音像は、今でも根株が仏像とつづいている生木を彫刻した一木彫で、会津ころり三観音の一、会津三十三観音31番となっています。

恵隆寺
恵隆寺の概要
山号 金塔山
院号 -
寺号 恵隆寺
住所 河沼郡会津坂下町大字塔寺松原2944
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



恵隆寺の縁起

恵隆寺は、欽明天皇元年(540年)に高寺として創建、大同3年(808年)に弘法大師が開創したと伝えられ、石塔山恵隆寺と称して七堂伽藍をととのえ、寺門は見明に、高寺への入口にあたる当地には小金塔を建立していたといいます。源平合戦に際して高寺は解体され、小金塔のあった当地に堂宇を再建、観音堂や大日堂を整え、慶長16年の会津大地震で荒廃した堂宇も再建したといいます。立木観音堂の千手観音像は、今でも根株が仏像とつづいている生木を彫刻した一木彫で、会津ころり三観音の一、会津三十三観音31番となっています。

新編会津風土記による恵隆寺の縁起

(塔寺村)観音堂
(境内東西二十二間、南北八十四間、免除地)八幡宮ノ東ニ並フ、七間半ニ六間、南向、千手観音ノ木像長二丈八尺、脇士二十八部衆ノ木像共ニ長六尺七寸、会津三十三所順礼ノ一ナリ、相伝フ、大同三年坂上将軍田村麿、空海ノ勧ニヨリ坂下組窪村ノ境内ニ一寺ヲ草創シ恵隆寺ト名ク、其時空海ミツカラ彼本尊脇士及弥陀薬師ノ像ヲ作リ、併セテ己カ寿像(長二尺)ヲモ刻ミテ本堂ニ安置ス、堂宇ノ巨壮麗云計ナカリシトソ、其後イツノ頃ニカ彼寺ヲ此所ニ移セリ(窪村ノ条下ト照見ルヘシ)昔此村ニ金ヲ鎮メシ塔アリシユエ小金塔村ト云シヲ、寺ヲ移シテヨリ村名ヲ塔寺ト改ム、恵隆寺ハモト真言ノ道場ニテ昔ハ八幡宮ノ社僧別当を勤シニヤ、長帳ニ此寺ノコトヲ記スニ当寺ト書テアリ、又永正ノ頃蛙田ノ満蔵坊ト云モノ兼帯セシコトモ見ユレハ僧侶ノ司ナルヘシ、然ルニイツノ頃ヨリカ修験ノ司トナリ寺ノ名廃ス、今モ其遺ニヤ、別当ノ修験金塔山恵隆寺ト称ス、又三十三幅ノ白布ヲ縫合セ、本尊及脇士ノ像ヲ画キ斗帳トス、此モノ昔ヨリカケカヘシコト往往旧事雑考ニ見ユ、今ハ大抵三十三年ヲ期トシテ改メ作ルトソ、慶長十八年ノ自身ニ堂宇毀顛セシヲ猪苗代湖中翁島ニ住シ興海ト云沙門此頃柳津村ニ在シカ、観音ノ夢想アリトテ蒲生氏ニ請ヒ、別当覚ツタト云モノト力ヲ勠セ元和三年ニ再興セリ、其時ノ棟札今ニ存ス、堂内ニ賓頭盧ノ像アリ、長一尺八寸、運慶作ト云、寛文中古刹ナレハ修補ヲ加フ、元和三年再興セシトキノ文書一通別当金秀院カ家ニ蔵ム、又鰐口アリ、径三尺、奥州会津蜷川荘恵隆寺奉懸鰐口事、永和三年丁巳大旦那平次郎ト彫付アリシトソ、今ノ鰐口ハ寛延四年ニ鋳セシモノナリ、径三尺、奉懸御宝前金塔山恵隆寺云云ト彫付アリ
二王門。本堂ノ南ニアリ、四間余ニ二間余、南向、力士長九尺二寸、運慶作ト云、額ニ高寺トアリ、筆者知ス
盥水所。本堂ノ前ニアリ、一間余四面ノ屋形ナリ、石盥ヲ設ク
三仏堂。本堂ノ前西ノ方ニアリ、二間ニ一間半、東向、弥陀薬師共ニ長三尺ノ座像、空海ノ作ト云、又六地蔵ノ木像ヲ安ス
大日堂。仁王門ノ前東ノ方ニアリ、三尺四面、西向、本尊阿位に地、昔此所ニ金ヲ鎮メシ塔アリ、村名ノ因テ起ル所小金塔ト云モノ是ナリ、慶長中ノ地震ニ毀レシ故其後此堂ヲ建シト云。
弥勒桜。境内丑寅ノ隅ニアリ、周一丈許、極メテ古木ト見ユ、里俗タネマキ桜ト称ス、年豊ナレハ花多シト云(新編会津風土記より)

境内掲示による恵隆寺の縁起

真言宗豊山派金塔山恵隆寺
小金塔再建勧進のことば
ここ、立木観音恵隆寺は人皇第二十九代欽明天皇元年(西暦五四〇年)に高寺として創建され、大同三年(西暦八〇八年)に弘法大師によって本尊立木観音と雷神、風神、二八部衆が彫刻され、寺号を石塔山恵隆寺と称し七堂伽藍をととのえ、更に三六の坊舎、加えて三千有余の子院を持ち会津の地の西半分を支配し現在地は当然境内の一角であり高寺山への登山口で大門もあった村のところから、村の地名ともなった小金塔(三重か五重かは不明)が建立され本尊に大日如来をおまつりしていた。
ところが建久元年(西暦一一九〇年)源平合戦の禍にまきこまれてしまい、そしてみじめにも敗戦となり高い山頂から小金塔のあった現在地に高寺おろしとなって「石塔山恵隆寺」は移転されてきた。
映ってきてみるともうそこには夢の黄金の小金塔は跡形もなく平氏の軍勢に解体され戦利品として持ちさられ、本尊大日如来は仮の小堂にまつられ以来八〇〇余年の時は流れ去っていた。
それでも信者のおかげもちまして今日まで会津の立木観音としてその体面を慶長十六年の会津一円を襲った大地震からも立直り保ち続けてくることができたものと感謝しております。(以下省略)(境内掲示より)


いいお墓

恵隆寺所蔵の文化財

  • 恵隆寺観音堂(重要文化財)
  • 木造千手観音立像(重要文化財)

恵隆寺観音堂

寺伝によれば鎌倉時代初期の建久年間(一一九〇~八)の創建といわれ、永禄二年(一五五九)の修理の後、慶長十六年(一六一一)の会津大地震に倒壊し、元和三年(一六一七)に再建された観音堂で、御丈八・五メートルの本尊を納めるにふさわしい五間・四間の大堂である。向拝は後補のもので、雨落りに葛石をめぐらし、柱は総て欅の円柱で、縁長押・内法長押・柱頭には頭貫を回し、平三斗が組まれ中備えに撥東(間斗東)が配されている。軒の出は深く二重の繁垂木は隅木近くで程よい反りを見せ、茅葺・寄棟の屋根には会津地方独特のグシ飾りがある。細部には元和の修理による唐様の手法も見られるが、会津えは喜多方市熊野神社長床につぐ純和様の古建築で貴重である。(会津坂下町教育委員会掲示より)

木造千手観音立像

恵隆寺観音堂の本尊で、像高八・五メートルの東北で最大、わが国でも有数の大像である。材は今のところ不明であるが、大木にあまりノミを入れない像容は柳の立木に刻んだという寺伝にふさわしい。頭上に十面を戴き、四十二臂に作られる。頭・胸は一本彫成、両臂のところで剥ぎあわせ、合掌手・宝鉢て以下四十臂は別木である。長大な下肢には腰裳を二段に配するなど工夫が凝らされ、全身には漆箔が施されている。造像の時期は観音堂とほぼ同時代の鎌倉時代初期が考えられている。(会津坂下町教育委員会掲示より)

恵隆寺の周辺図


参考資料

  • 新編会津風土記

関連ページ

  • 立木観音堂(真言宗豊山派)
    会津三十三観音・会津ころり三観音、一木造り