久畠山少林寺。喜多方市塩川町にある臨済宗妙心寺派寺院
少林寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の少林寺は、久畠山と号します。少林寺は、示現寺十世江鷗が開山、天正17年(1589)に伊達政宗の侵攻により堂宇を焼失したといいます。松野観音堂の別当寺を務めており、会津三十三観音2番の御朱印は当寺でいただけます。
山号 | 久畠山 |
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院号 | - |
寺号 | 少林寺 |
住所 | 喜多方市塩川町会知字苔町甲802 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
少林寺の縁起
少林寺の創建年代等は不詳ながら、に本山興徳寺の寿峯が寺号を少林寺から昌林寺に改め、貞和3(1347)年に建立、寛永13年(1636)に興徳寺の天祐和尚が再び少林寺としたといいます。
「塩川町史」による少林寺の縁起
臨済宗
塩川町域にある寺院のうち、臨済宗に属するものは、旧大沢村の久畠山少林寺一筒寺だけである。
少林寺の由来について、寛文五年(一六六五) 『会津寺院縁起」は、つぎのように記している。少林寺は会津若松城の北方二十七里にあり、寺の開創や開基については未詳であるが、村民の言い伝えによると、昔年は吉祥寺と号して、諸宗の沙門が来て寓居していたという。寺が無住であったため、寛永十三年(一六三六) 城下の興徳寺の天祐和尚により、その末山となり、少林寺と寺号を改めたという。また、寺号の少林は、この寺が古くから達磨像を本尊としてきたことに因むという。『新編會津風土記』巻之六十七は、慶徳組下六箇村の大沢村の少林寺の条で、同様の由来を伝える。
少林寺の開創については、会津藩が関わった資料のほかに、『異本塔寺長帳』にも記述がある。貞和三年(一三四七) の条に「外嶋村禅宗少林寺の本山興徳寺ノ壽峯昌林寺改建立」とあるのがそれで、興徳寺の壽峯により昌林寺が創建されたと記す。少林寺を改めて昌林寺を建立したと読むならば、昌林寺の前身の少林寺の開創は、南北朝期をさらに遡ることになる。
一方、寛政元年に成立した『会津鑑』を著わした高嶺覚大夫慶忠が『異本塔寺長帳』の貞和三年外嶋村少林寺の項を想起した際に、耶麻郡内には、かつて外島と称した大沢村が二ヶ所あったために起こった混乱ではなかろうか。先の大澤村は現在の喜多方市の大沢であり、後の大澤邑は現在の塩川町の大沢である。先の大澤村には、現在の少林寺につながる寺院が見当たらないことを考えると、『異本塔寺長帳』にある「外嶋村」は、元外島と行った大澤邑、つまり、塩川町の大沢と考えて置きたい。また、『会津寺院縁起』の少林寺の条に、「少林禅寺者在津陽城北」とあるのは、津陽城北西の写し違いではないかと思われる。
ともあれ、これらの資料からは、少林寺の創建は古く、貞和三年に本山興徳寺の寿峯が寺号を改め、その後、一時期は寺勢の衰退がみられたものの、寛永十三年に興徳寺の天祐和尚により、再びその末山となり、少林寺と寺号を改めたとする由緒をまとめることができる。
つぎに、現在の少林寺に残る資料から、寺の由来を再構成してみたい。本堂の中央須弥壇上には本尊の釈迦如来坐像が安置され、その向かって右手の厨子の中には達磨大師坐像が秘仏として安置されている。
達磨大師坐像は、両手を胸の前で組み、禅定印を結ぶが、その両手の先から両膝にかけての部分は別材を用い、内刳りを施した内部から大きめの木釘で本体に接ぐ。像高約五七・五センチメートルの本体は一材で造られ、面部には彫眼を施す。奥行きのある重厚な体躯と、緊張感あふれる面貌から、本像は室町期に、この地方において制作されたものと考えられる。『会津寺院縁起』に「達磨像従古為本尊」とあるものが本像であろう。
本堂須弥壇上の釈迦如来坐像は、像高三一センチメートル、檜材を用いた寄木造りの漆箔像である。面部には彫眼を施し、水晶製の白書をはめる。像内には九行、計四三文字の墨書がある。
この造像銘により、本像は寛文三年(一六六三)に会津若松の仏師左近の一子によって制作されたことがわかる。仏師左近は定朝(浄長)を祖とし、仏師浄慶の流れをくむ会津仏師を自称し、本像はその一子が十九歳の時の作品であったことが知られる。寛永十三年(一六三六)に興徳寺の末寺となり、「釈迦を本尊とし客殿に安ず」と『新編會津風土記』に記す像が本像であろう。
藩政期の少林寺の姿を伝える資料は僅かであるが、住持智遍の代である享保七年(一七二二)に、外嶋氏一族の浄財をもって造られ、寺に寄進された銅鐘が、本堂の軒を支える梁に懸架されている。鐘の総高は約七二センチメートル、口径は三九・四センチメートルである。また、境内の隅には元文年間(一七三六〜四一)と天明三年(一七八三)銘のある住持の供養碑が残る。
江戸の初期に臨済宗の寺院として再興を果たした少林寺は、室町時代から伝えられてきた本尊である達磨大師像を守護すると同時に、江戸の早い時期に新たな本尊として釈迦如来坐像を安置し、江戸の中期に至り長文の銘をもつ銅鐘などの仏具も整い、由緒ある臨済宗の寺院として格式を備え、また、寺観も整っていったことが知られる。(「塩川町史」より)
少林寺の周辺図
参考資料
- 「塩川町史」