瑞雲山興徳寺。覺圓勅諡大圓禅師開山、会津地方随一の臨済宗寺院
興徳寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の興徳寺は、瑞雲山と号します。興徳寺は、(円覚寺を開山した佛光国師に随従して中国より渡来した)覺圓勅諡大圓禅師が、鎌倉禅興寺・浄智寺や京都建仁寺などを経て当地に巡錫、弘安10年(1287)に創建したといいます。第三世大圭の代に荘厳整備、多くの末寺を擁し中興、芦名氏も帰依したものの、伊達政宗の侵攻に際しては居館として使われ、また豊臣秀吉の検地にも居館として供用されていました。蒲生氏部入部後は寺領の寄進を受け、三十六世逸傳は紫衣(最高の寺格)を拝領していました。戊辰戦争の兵火により罹災、現本堂は鶴ヶ城の解体余材で再建したものだといいます。
山号 | 瑞雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 興徳寺 |
住所 | 会津若松市栄町2-12 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
興徳寺の縁起
興徳寺は、(円覚寺を開山した佛光国師に随従して中国より渡来した)覺圓勅諡大圓禅師が、鎌倉禅興寺・浄智寺や京都建仁寺などを経て当地に巡錫、弘安10年(1287)に創建したといいます。第三世大圭の代に荘厳整備、多くの末寺を擁し中興、芦名氏も帰依したものの、伊達政宗の侵攻に際しては居館として使われ、また豊臣秀吉の検地にも居館として供用されていました。蒲生氏部入部後は寺領の寄進を受け、三十六世逸傳は紫衣(最高の寺格)を拝領していました。戊辰戦争の兵火により罹災、現本堂は鶴ヶ城の解体余材で再建したものだといいます。
境内掲示による興徳寺の縁起
興徳寺は今より七百数十年前の弘安十年この地に創建された格式の寺である。郭内にあった唯一の寺(臨済宗)であったが戊辰の兵火に罹り伽藍は昔日のおもかげはない。豊臣秀吉公が約四百年前(天正十八年)奥羽仕置の太閤検地の際、この寺を庁舎とした事でも有名である。本建造物は明治十年鶴ヶ城解体余材にて建立したものである。(境内掲示(境内掲示より)
「若松市史」による興徳寺の縁起
興徳寺
瑞雲山と競し、市内榮町にあり。境内官有地三反七畝十一歩民有地七反九畝二十一歩、境外所有地興徳寺接績畑反別三反九畝二十八歩あり。弘安十年勅諡大圓禅師の開山にして、天下の十刹に列し、本朝禅流廿四派の一たり。本尊は虚空蔵菩薩にして本堂・庫裏・虚空蔵堂あり叉境内に蒲生氏郷の古墳五輪塔あり。関山大圓禅師諱は覺圓、字は鏡堂、唐土西蜀の人にして法を天童環渓に嗣ぎ。六組恵能より二十一代徑山無準の法孫なり。弘安二年佛光禅師元より歸朝の時従ひ来りしかば北條時宗の計にで相州禅興寺及び建長寺等に住せしむ。幾もなくして洛の建仁寺に移住し、弘安十年の頃巡錫してこの地に来り紫雲の□□たるを見て佳瑞となし、八町四方の地ぞ占して経営をはじめ、不日に成就して瑞雲山興徳寺と名くと云。後二十年を經徳治元年九月二十六日禅師寂す。遺偈に日く、甲子六十三無法興人説、任運自去来、天上只一月と。勅して大圓禅師の諡を賜ふ。第三世を大圭といふ。この時荘嚴悉皆具備し、圓蔵寺(河沼郡柳津)禅定寺(河沼郡垂川)長福寺(安積郡赤津)等其他當時の末山となる。 依て大圭を中興の祖とす。芦名氏探く歸依して世々別院を建つるもの二十四宇に及ぴ数多の寺領を寄せたり。三十二世速傳に至り妙心寺派となる。天王十七年伊達政宗の兵境内を侵掠し、堂舎を破却し、僧徒を逐ひしかば、時の佳持心安は河沼郡勝常村勝常寺に遁る。政宗乃ち當寺を以て居館となして成放を定む、天正十八年豊臣秀吉の會津に来るや、また當寺を居館となして奥羽の成放を行へり。蒲生氏部入部して心安の高行を聞き、迎へて再ぴ住持とし、寺領を寄せたり。三十六世逸傳に至り、勅して紫衣を賜はる。其綸旨左の如し。
興徳寺住職之事、殊賜御前紫、専佛法紹隆、宜奉祈寶祚延長者 天気如此、仍執達如件。
慶長十二年丁未正月十日 藤原右少辨明廣
逸傳 和尚禅室(「若松市史」より)
興徳寺所蔵の文化財
- 阿弥陀如来像供養碑(市指定文化財)
阿弥陀如来像供養碑
この供養碑は、安山岩の自然石を用い、上部には種子(キリーク)、そして中央には阿弥陀如来が結跏趺坐し、定印を結び、その下部に蓮華座を細線で結んでいる。
年紀はないが、室町時代のものと推定され当時の信仰形態を知る上で貴重な資料である。(会津若松市教育委員会掲示より)
興徳寺の周辺図
参考資料
- 「北会津郡誌」
- 「若松市史」
関連ページ
- 鎌倉円覚寺(臨済宗円覚寺派)
- 臨済宗円覚寺派大本山