安積国造神社。郡山市清水台の神社

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安積国造神社。安積国造比止彌命の祖天湯津彦命、旧県社

安積国造神社の概要

安積国造神社は、郡山市清水台にある神社です。安積国造神社は、第十三代成務天皇五年(135)に安積国造に任ぜられて、安積国(郡山市、旧安達・田村両郡)を開拓した比止彌命が、宗廟として和久産巣日神、天湯津彦命を赤木山に祀り創建、国造神社と号したといいます。延暦年間には坂上田村麻呂将軍が宇佐八幡を合祀しています。天和3年(1683)八幡大神が赤木山の国造神社から当地へ、稲荷大神が中世安積領主伊藤摂津守城内から当地へ遷座、その後明治5年赤木山の国造神社がこの地へ奉遷し合祀、明治6年に郷社に列格、明治33年県社に昇格しています。

安積国造神社
安積国造神社の概要
社号 安積国造神社
祭神 和久産巣日神、天湯津彦命、比止彌命、誉田別命、倉稲魂命
相殿 -
境内社 安積天満宮、白玉稲荷神社、皇大神宮、郡山市招魂社
祭日 4月15日春季例大祭、9月27-29日秋季例大祭
住所 郡山市清水台清水台1-6-23
備考 -



安積国造神社の由緒

安積国造神社は、第十三代成務天皇五年(135)に安積国造に任ぜられて、安積国(郡山市、旧安達・田村両郡)を開拓した比止彌命が、宗廟として和久産巣日神、天湯津彦命を赤木山に祀り創建、国造神社と号したといいます。延暦年間には坂上田村麻呂将軍が宇佐八幡を合祀しています。天和3年(1683)八幡大神が赤木山の国造神社から当地へ、稲荷大神が中世安積領主伊藤摂津守城内から当地へ遷座、その後明治5年赤木山の国造神社がこの地へ奉遷し合祀、明治6年に郷社に列格、明治33年県社に昇格しています。

「福島県安積郡誌抄」による安積国造神社の由緒

(郡山町)県社安積国造神社
祭神は和久産巣日神、品陀和気命、稲倉魂命、天湯津彦命、比止称命の五柱にして人皇十三代政務天皇近江国志賀高穴補宮に臨み宇内を統御せらるるに際し阿岐国造の同祖天湯津彦命十世の孫比止称命を阿尺国造(阿尺は今の安積之なり)とし任所に赴かしむ於是命安芸国より此土に来り稲城を経営築造し以て社陵を奉祀する霊時を占撰し乃ち阿岐に賀の一字を挿入し阿賀岐山と称し和久産巣日神(百穀を司る神)及天湯津彦命を鎮祭し山川を望秩して国界を定め荒壊を芟墾し田園を拓き人民を撫育し賜ふ命の子孫祭政を宰り永く廟食す故に後世国人其の徳を称し比止称命を合祀して以て国造社と尊崇す明治六年社格決定の布告により郷社に列セラレ明治三十三年三月県社に列せらる境内に安積艮斎の碑文あり(「福島県安積郡誌抄」より)

境内掲示による安積国造神社の由緒

天湯津彦命は河内国河上の哮峰(いかるがみね)に天降りされた神で、安芸国造・安積国造の祖神であられます。その十世孫の比止彌命は、第十三代成務天皇五年(一三五)、勅命により安積国造に任ぜられ、安芸国からはるばる当地へ来られて荒野を開かれました。そのとき、赤木山(現在の赤木町)に安積國の宗廟として和久産巣日神、天湯津彦命をお祭りしたのが本神社の起源であります。
古の安積国は、現在の郡山市及び旧安達・田村両郡にわたる広大な地域でした。安積国開祖の神として大きな功績を残された比止彌命は赤木山の宗廟に合祀され、国造神社と号しました。
延暦年中、坂上田村麻呂将軍は東征の砌、国造神社に宇佐八幡大神を合祀し、軍旗と弓矢を奉納しました。源頼義は東征の折戦勝祈願し、義家は神領を寄進しました。
天和三年(一六八三)、八幡大神が赤木山の国造神社から、稲荷大神が中世安積領主伊藤摂津守城内からこの清水台の地に奉遷されました。明治五年(一八七二)、赤木山の国造神社がこの地へ奉遷され、三社を合祀しました。郡山総鎮守、旧社格は県社。
儒学者安積艮斎先生は、寛政三円(一七九一)、本神社第五十五代安藤親重の三男として生まれ、江戸に出て佐藤一斎に学び、私塾を開きました。幕府の昌平坂学問所教授を務め、東の安積艮斎、西の斎藤拙堂と称えられた大儒であります。門人三千名の中から、小栗上野介、吉田松陰、岩崎弥太郎、前島密はじめ二百人にのぼる偉人が輩出しています。本神社が所蔵する艮斎自筆の門人帳は、福島県重要文化財に指定されています。(「境内掲示」より)


安積国造神社所蔵の文化財

  • 安積艮斎自筆の門人帳(福島県指定重要文化財)

安積国造神社の周辺図


参考資料

  • 「福島県安積郡誌抄」