田所明神社。安芸郡府中町石井城の神社

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田所明神社。安芸郡府中町石井城の神社

田所明神社の概要

田所明神社は、広島県安芸郡府中町石井城にある神社です。田所明神社は、飽速玉命を始祖とする安芸国造佐伯氏の子孫で、田所職を相続して家号を田所とした田所氏が、厳島明神、速谷明神、多家神の永代勅使代として神祭を司っていたことから、大正5年、(延久4年1072年建立の)国庁神社、槻瀬明神、大黒社三社の御祭神を合祀し田所明神社としたといいます。

田所明神社
田所明神社の概要
社号 田所明神社
祭神 飽速玉命
相殿 安芸津彦命、槻瀬明神、大国主命、市杵島姫命、宇迦之御魂命、事代主命
境内社 -
祭日 -
住所 安芸郡府中町石井城1-6-16
備考 -



田所明神社の由緒

田所明神社は、飽速玉命を始祖とする安芸国造佐伯氏の子孫で、田所職を相続して家号を田所とした田所氏が、厳島明神、速谷明神、多家神の永代勅使代として神祭を司っていたことから、大正5年、(延久4年1072年建立の)国庁神社、槻瀬明神、大黒社三社の御祭神を合祀し田所明神社としたといいます。

境内石碑による田所明神社の由緒

田所明神社由緒略記
安芸津彦命、槻瀬明神、大国主命、飽速玉命、市杵島姫命、宇迦之御魂命、事代主命
当神社は成務帝(人皇十三代、西暦百三十五年頃)の御代に安岐国造として、奉命された飽速玉命を主祭神とし七柱を守護神として祀られている。命の子孫爾来五百年、広島市佐伯区五日市町三宅に住む。調停より田所職を置かれ、大化の改新の後、府中に国庁が置かれた。田所家は代々その職に任じ、故に家号とした。往古田所職は厳島明神、速谷明神、多家神に永代勅使代として、神祭に臨み政務を司った。
田所総判官代信職をはじめ歴代国府上卿職は厳島神社の定勅使を勤めた。中古より国庁神社の神事を中心に氏子の農耕養蚕商業によって生活の基礎が進められてきた。大正五年十一月多家神社社司田所元善(竹槌)が、国庁神社、槻瀬明神、大黒社三社の御祭神を合祀し田所明神社と改め、氏子万民とともに盛大な御遷座祭が斎行され国家安泰、家内安全、五穀豊穣等神明に加護を祈った。田所明神社は万民崇敬者の家内安全、農耕安産生育、厄除け、学業成就、商業繁栄等において靈驗あたらかで神威明照御神徳高く尊崇篤き神社である。(境内石碑より)

田所氏について

安岐国造家の田所氏は、安岐国第一の旧家で、其の祖先は遠く天湯津彦命の五世の孫飽速玉命を始祖とする。朝廷より田所職が置かれ、代々その職を相続し、遂に家号とした。安岐国造家として代々国造を相続。今の速谷神社、及び、佐伯区五日市町三宅の田所屋敷跡等に住む。大化改新以後国造を廃せられ、郡の大領として譜代の郡司を代々相続。又厳島神社の奉幣使を兼ねて代々相続、厳島明神、速谷明神、多家神に永代勅使として神祭に望み、政務官と神官を兼ねた。昌泰三年(九〇〇)頃より佐西四度使、田所総大判官代田所兄部職、大據職等在庁官人の長官的職務を代々相続。佐西四度使を蒙るにより勅使とも、四度使とも、田務職ともいう。田所資賢の七男石井七郎末忠公は後醍醐天皇より綸旨を賜り、建武の中興を成す。延元元年(一三三六)湊川の戦いで、楠正成公とともに石井末忠公は忠死された。大正八年(一九一九)秋、大正天皇より正五位を追贈され、有志により石井城趾に顕彰碑が建立された。
貞治五年(一三六六)父田所信高より田所総判官代太郎左右衛門尉を田所在俊は譲り受け、至徳四年(一三八七)正三位上安藝国厳島神社両度初申の御神事定勅使、上卿役祭主兼安芸郡府中村南八幡宮別当北惣社も厳島と同様定勅使に補せられ御証文と御装束を拝戴す。事後、田所氏は明治五年(一八七二)まで正三位上安藝国厳島神社両度初申の御神事定勅使、上卿役祭主兼安芸郡府中村南八幡宮別当北惣社も厳島と同様定勅使を代々相続した。(境内掲示より)


田所明神社の由緒

  • 田所屋敷跡
  • 田所文書(広島県重要文化財)

田所屋敷と田所文書

田所屋敷は、平安末期から鎌倉時代にかけて安芸国の在庁官人で、田地に関する行政機関(田所)の長官的職務にあった田所氏の屋敷跡と伝えられている。
同家に伝わる二巻の文書のうち、「安芸国衙領注進状」には国衙領内で年貢を納めなくても良い免田と年貢を納める応輪田が郡・郷・村・名ごとに書上げられ、鎌倉時代初めから中ごろの様相を知ることができる。正応2年(1289年)の奥書がある「沙弥譲状」は、田所氏が世襲している財産が記され、田所氏の豪族的性格がわかる資料である。(府中町教育委員会掲示より)

田所明神社の周辺図


参考資料

  • 「広島縣神社誌」