尾長天満宮。広島県広島市東区の神社

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尾長天満宮。広島県広島市東区の神社

尾長天満宮の概要

尾長天満宮は、広島県広島市東区にある神社です。尾長天満宮は、菅原道真公が太宰府へ左遷され、下向の際に尾長山で休息され、小祠が祀られたと伝えられ、平清盛が勧請したとも伝えられます。安芸国守護武田信光が承久年中(1219--1221)が再建、文和年中(1352-1356)には武田直信が大麻天神の御祭神六座を当社へ合祀したといいます。広島藩主浅野長晟の命を受け、寛永17年(1640)松尾甚助忠正が山麓に神殿を建立、享保年中(1716-1736)当地に遷座、明治維新後の明治5年に尾長天満宮と称し、明治42年尾長村字片河稲荷神社を合祀しています。

尾長天満宮
尾長天満宮の概要
社号 天満宮
祭神 菅原大神、大穴牟遅神、少名毘古名神、宇気母智神
相殿 天之御中主神、神産巣日神、志那都比古神、高御産巣日神、天照大御神、志那都比売神、大山津見神、野槌神、伊邪那美命、久久能智神、火之迦具土神、波迩夜須毘売神
境内社 -
祭日 10月25日
住所 広島市東区山根町33-16
備考 -



尾長天満宮の由緒

尾長天満宮は、菅原道真公が太宰府へ左遷され、下向の際に尾長山で休息され、小祠が祀られたと伝えられ、平清盛が勧請したとも伝えられます。安芸国守護武田信光が承久年中(1219--1221)が再建、文和年中(1352-1356)には武田直信が大麻天神の御祭神六座を当社へ合祀したといいます。広島藩主浅野長晟の命を受け、寛永17年(1640)松尾甚助忠正が山麓に神殿を建立、享保年中(1716-1736)当地に遷座、明治維新後の明治5年に尾長天満宮と称し、明治42年尾長村字片河稲荷神社を合祀しています。

境内掲示による尾長天満宮の由緒

学問・書道の神として古くから崇敬された菅原道真が、九州太宰府に下る途中、尾長山の麓に船を寄せ、この山に登って休息したと伝えられ、その場所に小祠が建てられました。やがて、かつて京都において浅野長晟の連歌の相手をした松尾忠正(熱心な菅公の信者)が広島を訪れ、寛永17年(1640年)、民家に近い山の麓、道真由来の場所に社殿を建立して菅神を祀りました。その後、享保年間(1720年頃)、今の場所に社殿を再建したようです。
現在の本殿は、饒津神社にあった招魂社(明治時代の建物)を昭和12年に移したものです。(二葉の里歴史の散歩道掲示より)

「広島県神社誌」による尾長天満宮の由緒

菅原道真公が大宰府に遷され給う途次、この尾長山の峯に登り暫く休まれた。それにより、この峯を菅大臣山と称し、村民祠を建てて祀りしが久しくして荒廃すと伝える。また、平清盛が大麻天神を拝して山中逍遥する時、俄に暴風雷雨激しくなり困窮す。清盛主従、孤松の下に寄り菅原大神に祈ると雷雨忽ち鎮静す。清盛、神徳を感じ、その地へ神祠を創建し菅原大神を勧請す。承久年中(一二一九-二二)安芸国守護武田信光が再建し、文和年中(一三五二-六)武田直信が大麻天神の御祭神六座を当社へ合祀して天神宮と号した。それ以来当社を銀山城主武田家の守護神として家臣串氏に祀らせた。武田氏滅亡の後、毛利元就は神主を渡邊家に命じ、天正年中(一五七三-九二)毛利輝元は社領を寄せた。寛永十七年(一六四〇)七月二十五日広島藩主浅野長晟の命を受け、京の人、松尾甚助忠正が山麓に神殿を建立して大麻天神六座の内、大穴牟遅、少名毘古那の二神と菅原大神を遷座し、次いで享保年中(一七一六-三六)今の地に再遷し、天神宮と号した。また、菅大臣山に四神を留め、これを古天神宮と称した。享和三年(一八〇三)以来天満宮と称し、明治五年以降、尾長天満宮と称す。同四十二年二月尾長村字片河稲荷神社を本社へ合祀する。大正十五年九月水害により社殿倒壊し、氏子中総力を挙げて復旧す。昭和二十年八月社殿が原爆被災により大破したが、復興し現在に至る。(「広島県神社誌」より)


尾長天満宮の周辺図


参考資料

  • 「広島県神社誌」