碇神社。広島県広島市中区の神社
碇神社の概要
碇神社は、広島県広島市中区にある神社です。碇神社の創建年代などは不詳ながら、箱島明神と称して奈良時代初期に鎮座したとも伝えられます。一説では毛利氏が広島城を居城とする際、海神を祀り碇大明神と称したといいます。明治5年村社に列格しています。
社号 | 碇神社 |
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祭神 | 大綿津見神 |
相殿 | - |
境内社 | 稲生神社、藤之森稲荷大明神社、若宮神社 |
祭日 | 春大祭、秋大祭 |
住所 | 広島市中区白島九軒町12−20 |
備考 | 旧村社 |
碇神社の由緒
碇神社の創建年代などは不詳ながら、箱島明神と称して奈良時代初期に鎮座したとも伝えられます。一説では毛利氏が広島城を居城とする際、海神を祀り碇大明神と称したといいます。明治5年村社に列格しています。
「歴史の散歩道」掲示による碇神社の由緒
16世紀末に広島城が築城される以前から、この地に社があったとされ、19世紀初めに記された「知新集」によれば、築城前のまだこの地が青海原であった頃、ここへ他国船が来て碇をおろしたことから碇神社といわれるようになったと伝えられている。(「歴史の散歩道」掲示より)
境内掲示による碇神社の由緒
祭神大綿津見神
古くは箱島明神とも称す
一、創建は奈良朝時代初期(約一千二百五十年前)
此の地其の昔海辺なりし頃
当碇神社の社辺に大岩盤在り
太古よりしばしば舟が難破せし為
地と海の神を鎮祭し奉ることに始まる
従って当広島に於ける最古の氏神と考証される
一、天正十七年(一五八九年)毛利輝元公
広島城築城に際し改めて社殿を造営し
社領の寄進を為す
当白島地域の産土神として親まれ尊崇を集めた
一、昭和二十年八月原爆に依り灰燼に帰す
仮社殿に於て祭祀せしも
昭和四十年春氏子崇敬社の協賛を得て
再建今日に至る(境内掲示より)
「廣島市史社寺史」による碇神社の由緒
碇神社
碇神社は白島九軒町に在り、祭神は大綿津見神なり、社傳に據れば、天正年間、毛利氏廣島に築城の時、水理及地形を計り、海湾斥齒を填めて、地を開くこと數里、或は海神の怒に觸れんことを恐れて、先づ海神を此地に祀る、稱して碇大明神と云ひ、傍に眞言宗の一寺を營み、寶勝院と稱し、二宮太郎右衛門の子増仙を以て別當と稱し、神田若干を附す、後ち福島氏の時、神田を沒収せらる、是より漸く衰毀すと云ふ、藩制時代には寶勝院の鎮守社たりしが、明治初年神佛分離の際、初めて別に境内區域を劃す、同五年十一月村社に列せられ同四十年二月一日神饌幣帛料供進社に指定せらる、境内は貮百六拾貮坪八合二勺なりしが、大正元年十一月西白島町福田千次郎より神社境内接續地二畝二十六歩四合八勺と家屋三棟とを社有財産として寄附し、稍廣潤となれり、毎歳十月二十九日を以て例祭日となす(「廣島市史社寺史」より)
碇神社の周辺図
参考資料
- 「廣島市史社寺史」