比治山神社。広島県広島市南区の神社

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比治山神社。広島県広島市南区の神社

比治山神社の概要

比治山神社は、広島県広島市南区にある神社です。比治山神社の創建年代等は不詳ながら、黄幡大明神と称して比治山南(俗に黄幡谷と称した)に鎮座していたといいます。眞言宗勝楽寺を開山した榮雄が正保3年(1646)境内鎮守として当地に遷座、当地一帯の鎮守として祀られていたといいます。明治維新の神仏分離により勝楽寺は廃寺となり、当社は比治山神社と改号、明治5年村社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定され、明治42年には皆實町字皆實新開の堅磐神社・同新開の出雲神社を合併しています。

比治山神社
比治山神社の概要
社号 比治山神社
祭神 大国主大神、少名毘古神、建速須佐之男命、市杵島比売命
相殿 車折大明神
境内社 稲荷神社
祭日 10月29日
住所 広島市南区比治山町5−10
備考 -



比治山神社の由緒

比治山神社の創建年代等は不詳ながら、黄幡大明神と称して比治山南(俗に黄幡谷と称した)に鎮座していたといいます。眞言宗勝楽寺を開山した榮雄が正保3年(1646)境内鎮守として当地に遷座、当地一帯の鎮守として祀られていたといいます。明治維新の神仏分離により勝楽寺は廃寺となり、当社は比治山神社と改号、明治5年村社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定され、明治42年には皆實町字皆實新開の堅磐神社・同新開の出雲神社を合併しています。

境内掲示による比治山神社の由緒

もと黄幡大明神と称し、比治山南(俗称ー黄幡谷)に鎮座されていましたが、正保三年(西暦一六四六)現在の社地に移して鎮守社となり、藩政時代には稲荷町三組、東柳町、下段原村、竹屋町南裏、平塚、竹屋村などの産土神として祀られ、当時の幕府より毎年正月松添木、九月祭礼湯立の薪木を寄付され流など崇められていました。明治元年、神仏分離の際社名を改めて比治山神社と称し、明治四年拝殿を再建、明治五年村社に列せられ、明治四十神饌幣帛料供進社に指定されました。
昭和二十年原爆により本、拝殿焼失、昭和二十九年本・拝殿建立、昭和三十四年神社本庁より別表神社に列せられました。(境内掲示より)

「広島県神社誌」による比治山神社の由緒

もと黄幡大明神と称し、比治山南(俗に黄幡谷と称した)に鎮座されていたが、正保三年(一六四六)三月現在の社地に遷して勝楽寺の鎮守社となり、藩政時代には稲荷町三組、東柳町、下段原村、竹屋町南裏、平塚、竹屋村などの産土神として祀られた。当時は幕府より毎年正月松添木、九月祭礼湯立の薪木を寄付されていた。明治元年の神仏分離の際、社名を改めて比治山神社と称し、勝楽寺を廃寺とする。明治四年拝殿を再建、同五年村社に列せられる。次いで同四十二年二月には皆実町字皆実新開の堅磐神社を、七月には同新開の出雲神社を当社に合併した。昭和二十年原爆により本殿、拝殿等を焼失、同二十九年本殿拝殿を再建立し、三十四年、神社本庁より別表神社に列せられる。なお、相殿の車折大明神は清原頼業公であって、文政三年(一八二〇)京都嵯峨より勧請した。往時は本殿と拝殿を備えていたが、明治になって社殿が大破したので相殿神となす。(「広島県神社誌」より)

「廣島市史」による比治山神社の由緒

比治山神社
比治山神社は、段原町字桐の木に在り、境内四百五十七坪(官有地第一種)祭神は大國主神・健速須佐之男神・少名毘古神なり、もと黄幡大明神と稱し、比治山南の谷間(俗に黄幡谷と稱する處)に在りしが、正保三年三月同村眞言宗勝楽寺開山榮雄これを寺の境内(現今の社地)に移して、鎮守社となす、天保六年勝楽寺の罹災に依り、舊記焼失し、勧請年月等詳かならず、藩制時代には、幕府より毎歳正月門松添木・九月祭禮湯立の薪木を寄附せられ、稲荷町三組・東柳町・下段原町・竹屋町南裏・平塚・竹屋村等の産土神なりき、明治元年十二月神佛分離の際、社名を改めて比治山神社と稱し、勝楽寺は廢寺となり、同寺住職智等は還俗して志熊新と改名し、當社の社掌となる、明治四年拝殿を再建し、同五年村社に列し、同四十年二月一日神饌幣帛料供進社に指定せらる、次いで同四十二年二月二十四日には皆實町字皆實新開の堅磐神社を、七月五日には同新開の出雲神社を當社に合併す、毎歳十月二十九日を例祭日となせり、(「廣島市史」より)


比治山神社の周辺図


参考資料

  • 「広島県神社誌」
  • 「廣島市史」