洞雲寺。廿日市市佐方にある曹洞宗寺院
洞雲寺の概要
曹洞宗寺院の洞雲寺は、應龍山と号します。洞雲寺は、桜尾城主で厳島神社宮司の藤原教親・宗親親子が、山口県・龍文寺の僧金岡用兼を招請して、長享元年(1487)に創建、後の領主大内氏・毛利氏も寺領を保護、浅野氏の代には32石の寺領を与えられていたといいます。広島新四国八十八ヵ所霊場82番です。
山号 | 應龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 洞雲寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
住所 | 廿日市市佐方1071−1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
洞雲寺の縁起
洞雲寺は、桜尾城主で厳島神社宮司の藤原教親・宗親親子が、山口県・龍文寺の僧金岡用兼を招請して、長享元年(1487)に創建、後の領主大内氏・毛利氏も寺領を保護、浅野氏の代には32石の寺領を与えられていたといいます。
境内掲示による洞雲寺の縁起
応龍山洞雲寺は、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼を開祖とし、桜尾城主であった厳島神社藤原教親・宗親親子により、長享元年(1487)その菩提寺として創建された曹洞宗の禅院である。金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また、阿波国(徳島県)守護大名細川成之の帰依を受け、同国の丈六寺と桂林寺も管轄していた。
現在、洞雲寺に所蔵されている「正法眼蔵」(県重文)は、禅師みずからがこの桂林寺において書写したものである。
藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与え、その死亡後も代わって大内氏がこれらの寺領を認め、さらに毛利氏の時代には、重臣の桂元澄、ついで元就の四男元清が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。
また、寺内には、藤原興藤、桂元澄、毛利元清夫妻の墓や陶晴賢の首塚(いずれも市重文)などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。
これらを含め、同寺には現在、県重要文化財7点、市重要文化財7点がある。(廿日市市教育委員会掲示より)
「廣島縣史」による洞雲寺の縁起
長享元年、櫻尾城主大宮司教親、周防龍文寺の僧金岡(諱川兼)を招き、當寺を造營、寺領を附し、嚴島山中に採薪するを許す、後大内氏以来も世々この領主、皆崇敬篤く、淺野家の時も、三十二石餘の寺禄あり(「廣島縣史」より)
洞雲寺所蔵の文化財
- 金岡用兼書写の「正法眼蔵」(県重文)
- 藤原興藤妻の墓(市重文)
- 桂元澄妻の墓(市重文)
- 毛利元清夫妻の墓(市重文)
- 陶晴賢の首塚(市重文)
洞雲寺の周辺図
参考資料
- 「廣島縣史」