安国寺不動院。広島県広島市東区にある真言宗寺院
安国寺不動院の概要
真言宗寺院の不動院は、新日山安国寺と号します。不動院の創建年代等は不詳ながら、平安時代の創建と推定されています。その後足利尊氏・忠義兄弟が国内各地に建立した安国寺として建て直され、室町時代には安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄、武田氏と大内氏との戦乱で焼失したしまった当寺を、安国寺恵瓊が再建したといいます。安国寺恵瓊が関ヶ原の合戦で敗死し、寺運は衰えたものの、入国した福島正則が、自身の祈祷僧宥珍を当寺に入寺させ、不動明王を本尊とした真言宗寺院として不動院と称したといいます(現本尊は薬師如来像)。当寺の本堂(金堂)は、安国寺恵瓊が山口から移建したもので国宝に指定されている他、楼門や鐘楼など数多くの文化財を有し、広島県真言宗教団の別格本山寺院です。
山号 | 新日山 |
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院号 | 不動院 |
寺号 | 安国寺 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 広島市東区牛田新町3-4-9 |
宗派 | 真言宗教団 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
安国寺不動院の縁起
不動院の創建年代等は不詳ながら、平安時代の創建と推定されています。その後足利尊氏・忠義兄弟が国内各地に建立した安国寺として建て直され、室町時代には安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄、武田氏と大内氏との戦乱で焼失したしまった当寺を、安国寺恵瓊が再建したといいます。安国寺恵瓊が関ヶ原の合戦で敗死し、寺運は衰えたものの、入国した福島正則が、自身の祈祷僧宥珍を当寺に入寺させ、不動明王を本尊とした真言宗寺院として不動院と称したといいます。
境内掲示による不動院の縁起
新日山安国寺不動院の歴史
新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
しかし、戦国時代の大永年間(1521-27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備士、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて、明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。(境内掲示より)
安国寺不動院所蔵の文化財
- 金堂(国宝)
- 鐘楼(国重要文化財)
- 木像薬師如来坐像(国重要文化財)
- 木像仁王立像(県重要文化財)
- 紙本墨書不動院文書(県重要文化財)
- 絹本着色両界曼荼羅(市重要有形文化財)
- 木像聖一国師像(市重要有形文化財)
- 塑造無準禅師像(市重要有形文化財)
金堂
大内義隆が周防山口に建てたものを安国寺恵瓊が移建し、仏殿にしたと伝えられています。現存する唐様の建築としては最大の遺構であり、中世の本格的な仏殿の規模をうかがうことが出来ます。正面一間通りを吹き放しとした珍しい構造は、大陸的な正式の手法と考えられます。天井に描かれた天女と竜の絵には「天正九年・・・」(1540)の賛があり建物の創建もこの頃と推定されます。(境内掲示より)
鐘楼
永享5年(1433)頃の建立されたもので、内部には高麗鐘があります。銘や痕跡から天正年間移築の可能性があります。(境内掲示より)
木像薬師如来坐像
金堂の本尊。檜材寄木造で面相は円満。衣文は流麗。定朝様藤原時代の秀作です。(境内掲示より)
木像仁王立像
楼門にあり檜材寄木造で向かって右側が阿形像、左側が吽形像で玉眼入りです。像内に永仁二年(1294)の銘があります。(境内掲示より)
紙本墨書不動院文書
新山安国寺不動院由来、新山安国寺不動院雑記各一冊、安国寺恵瓊関係の書状、豊臣秀吉の朱印状、など24通の文章が収められています。(境内掲示より)
絹本着色両界曼荼羅
金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅共に南北朝頃の製作で表装や彩色の方法に特色があり福島正則の寄進と伝わっています。(境内掲示より)
木像聖一国師像
室町時代中期頃の製作で木彫像には稀な木を積み重ねてつくる「輪積み」という技法を用いています。(境内掲示より)
塑造無準禅師像
室町時代中期頃の製作で硬い仕上がりから火中陶製と考えられます。細部まで箆を使って写実的表現をとっています。(境内掲示より)
安国寺不動院の周辺図
参考資料
- 「廣島市史社寺史」