聖光寺。広島県広島市東区にある曹洞宗寺院

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聖光寺。広島県広島市東区にある曹洞宗寺院

聖光寺の概要

曹洞宗寺院の聖光寺は、広島山と号します。聖光寺は、中区小町にあった洞景山聖光寺と当地にあった広島山瑞川寺とが昭和40年に合併、広島山聖光寺と号します。聖光寺は、足利尊氏の妹「梶子姫」が開基となり、広島県賀茂郡安宿に創建、悦堂常喜禅師が応永年間に開山、慶長17年(1612)へ移転、明治時代まで曹洞宗大本山総持寺の輪番寺だったといいます。一方瑞川寺は、菅原道真が太宰府へ左遷された際に当寺に立寄ったと伝えられ、毛利輝元が広島の開発に際して宿したことから山号を広島山としたといいます。

聖光寺
聖光寺の概要
山号 広島山
院号 -
寺号 聖光寺
本尊 -
住所 広島市東区山根町29−1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



聖光寺の縁起

聖光寺は、中区小町にあった洞景山聖光寺と当地にあった広島山瑞川寺とが昭和40年に合併、広島山聖光寺と号します。聖光寺は、足利尊氏の妹「梶子姫」が開基となり、広島県賀茂郡安宿に創建、悦堂常喜禅師が応永年間に開山、慶長17年(1612)へ移転、明治時代まで曹洞宗大本山総持寺の輪番寺だったといいます。一方瑞川寺は、菅原道真が太宰府へ左遷された際に当寺に立寄ったと伝えられ、毛利輝元が広島の開発に際して宿したことから山号を広島山としたといいます。

「廣島縣史」による聖光寺の縁起

新川場町聖光寺
天元三年圓岳大師開基文保二年悦堂再開山もと豊田郡安宿村にありて松光寺といふ、後聖光寺の字に改む昔は寺領も多かりしか、福島氏の時沒収せられて衰頽を極め慶長十七年龜翁今の地に移る。
尾長町瑞川寺
𦾔號を萬松山と云ふ、廣島開發の時毛利輝元公當寺に館す、仍て廣島山と改號す、寺領もと五十貫毛利氏更に二十貫を加ふといふ。後久しく無住なりしか禅昌寺四世大淵當寺に隠居せしより之を中興の開山とす(「廣島縣史」より)

境内掲示による聖光寺の縁起

「聖光寺」は、山号を洞景山と称し、広島県下唯一の曹洞宗大本山總持寺元輪番地です。応永元年(1394)賀茂郡豊栄町に、悦堂常喜禅師を開山として階層。七堂伽藍を配し、塔司12ヶ寺を擁する大寺院でした。二度の火災において焼失し、寛永元年(1624)現在の広島市中区小町に移転。寺基を定めました。昭和20年8月原爆で全堂宇を焼失。昭和50年(1975)現在地の瑞川寺と合併し、寺号を聖光寺として再出発しました。「瑞川寺」は広島で最も古い寺の一つ。かつては吉田町にあって、山号を万松山と称していました。創建は不明。住職の明室周尊和尚が、毛利元就親子より厚くもてなされ、その縁で孫の輝元が天正17年(1589)広島城を造営するため広島に来て、明星院山(現在の二葉山)に登り検分した際、この寺に泊まり、五箇ノ庄(箱島、在間、平塚、鍛冶塚、広瀬)などと呼ばれていた地名を広島に改め、広島山の山号を贈ったと伝えられ、現在の山号をなっています。菅原道真公が九州へ下向する道中に立ち寄り、「水を掬す瑞川の流、月を弄す二葉の里」の詩を残したといわれ、二葉山、瑞川寺の名称の起源とされています。
伝説によると、元禄14年(1701)赤穂義士討ち入り成就の知らせを国元の広島藩浅野家に報告し、持ち帰った大石内蔵助父子の遺髪を浅野家菩提寺の国泰寺に葬って欲しいと申し出たところ、科人故、浅野家は遠慮し瑞川寺に葬ることになったという。寺には大石内蔵助父子の供養墓があります。(境内掲示より)

境内掲示による聖光寺の縁起

広島山聖光寺縁起
○聖光寺は、洞景山・聖光寺と称し足利尊氏の妹「梶子姫」の開基元広島県賀茂郡安宿(現豊栄町)東西三十町南北二十町七堂伽藍を備え、塔司十二ヶ寺あり、応永年間悦堂常喜禅師を開山とす
本尊は「十一面観世音菩薩」二度の火災に遭い、寛永元甲子年(一六二四年)十世亀翁覚禅師の代、福島正則公の要請に依り広島・東寺町新川場に移転(現中区小町)明治の頃まで曹洞宗大本山総持寺(横浜・鶴見)の輪番寺として大本山の住職をつとめた。
○瑞川寺は元山号万松山と称す。明室周尊禅師の開基菅原道真公西下のみぎり、立ち寄り小憩「水を掬す瑞川の流、月を弄す二葉の里」の詩を残す
毛利輝元公 島普請の際、二葉山に登り地見 瑞川寺に宿す この時山号を広島山と改む後広島城主浅野公代 国泰寺十八世大雄魏健禅師を請し開山とす
本尊「阿弥陀如来」昭和二十年 原爆にて焼失せり
昭和四十年聖光寺二十八世・瑞川寺八世大機哲翁和尚の代両寺合併「広島山・聖光寺」と称す。(境内掲示より)


聖光寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」