神應院。広島県呉市清水にある曹洞宗寺院
神應院の概要
曹洞宗寺院の神應院は、呉市清水にあります。神應院は、国泰寺塔司として建立、広島にありましたが、國泰寺17世猛山實勇が退隠後、體國院(浅野吉長)恭昭院(浅野重晟)を回向したいとの願いにより、藩主浅野斎賢より安佐郡三篠町大字新庄に寺地を与えられ、国泰寺塔司の神應院を移転させて一寺としたといいます。広島藩より40石の料米を受領していましたが、明治維新後、料米が廃止となり、趙寂院を神應院に合併させて趙寂院の地(広島市広島小町)へ移転、明治31年当地へ移転したといいます。
山号 | - |
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院号 | 神應院 |
寺号 | - |
本尊 | 釈迦牟尼佛像 |
住所 | 呉市清水2−1−24 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
神應院の縁起
神應院は、国泰寺塔司として建立、広島にありましたが、國泰寺17世猛山實勇が退隠後、體國院(浅野吉長)恭昭院(浅野重晟)を回向したいとの願いにより、藩主浅野斎賢より安佐郡三篠町大字新庄に寺地を与えられ、国泰寺塔司の神應院を移転させて一寺としたといいます。広島藩より40石の料米を受領していましたが、明治維新後、料米が廃止となり、趙寂院を神應院に合併させて趙寂院の地(広島市広島小町)へ移転、明治31年当地へ移転したといいます。
「廣島縣史」による神應院の縁起
神應院
もと國泰寺塔司にして、今の玉照院即當寺なりしか、文化十三年國泰寺先住實勇玉照院寺地を官に納め、代地を新庄山に賜ふ、依て新に新庄山に當寺を創立して之に移り、淺野家墓所の番僧たり、明治二十年廣島小町趙叔院を當寺へ併せ、當寺を趙叔院跡に移し、同三十一年、更に今の地に移轉。(「廣島縣史」より)
「廣島市史社寺史」による神應院の縁起
神應院
神應院は、もと安佐郡三篠町新庄山の麓に在りしが、今は呉市に在り、本尊は聖觀世音菩薩なり、藩制時代は御靈屋番頭僧頭と稱し、禄米四十石を附せらる、初め當院は國泰寺の塔司にして、今の玉照院の地に在りしが、國泰寺十七世猛山實勇退隠の後、體國院(浅野吉長)恭昭院(浅野重晟)の靈廟に近侍し、朝夕廻向し奉らんとの宿願あるに依り、藩主斎賢より沼田郡新庄村(今の安佐郡三篠町大字新庄)下山手に寺地を賜り、實勇をして神應院を此地に移さしめ、新たに神應院の開山と爲し、御靈屋番僧頭を命じ、毎歳料米四十石を給はる、然るに維新の後ち寺料を廢止せられ、寺院の維持困難となれるを以て、明治二十年四月趙寂院を當院に合併し、趙叔院本尊釋迦牟尼佛を脇立とし、暫く趙叔院の跡地に移轉せしが、同三十一年六月八日呉市和莊町に再び移轉せり。(「廣島市史社寺史」より)
神應院の周辺図
参考資料
- 「廣島市史社寺史」