廣寂寺。広島県広島市南区にある浄土真宗本願寺派寺院
廣寂寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の廣寂寺は、鴒原山と号します。廣寂寺は、幼少時より仏門に入っていた武田刑部少輔信隆の末子教傳が、天文2年(1533)證如上人に帰依、眞倉坊と名乗り、金山落城後に安佐郡上深川村に道場「眞倉坊」として草創したといいます。その長子教順は永禄8年(1565)に、尾長村太蔵原に一宇を建立、教傳の外孫第4世願西の代に天正5年(1577)広島に移転したといいます。
山号 | 鴒原山 |
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院号 | - |
寺号 | 廣寂寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 広島市南区稲荷町2−5 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
廣寂寺の縁起
廣寂寺は、幼少時より仏門に入っていた武田刑部少輔信隆の末子教傳が、天文2年(1533)證如上人に帰依、眞倉坊と名乗り、金山落城後に安佐郡上深川村に道場「眞倉坊」として草創したといいます。その長子教順は永禄8年(1565)に、尾長村太蔵原に一宇を建立、教傳の外孫第4世願西の代に天正5年(1577)広島に移転したといいます。
「廣島縣史」による廣寂寺の縁起
廣寂寺
開基眞蔵坊教傳、(武田刑部少輔信隆末子)金山の麓鴒田原に住し、天台宗たり、後時宗に轉し、天文二年更に眞宗となる、同五年安北郡上深川に移り、永禄七年寂す、翌年長尾村陀西(一に太歳)に轉居し教傳の子教順を寺務とす九年教順死し弟順清嗣き元龜二年に死す其以後無住となり、佐東郡高取に移りしか、教傳の外孫願西(飯田伊賀の子)天正五年今の地に移轉再興す、六世宗傳の時、今の寺號に改む、もと佛護寺末。(「廣島縣史」より)
「廣島市史社寺史」による廣寂寺の縁起
廣寂寺
廣寂寺は鴒原山と號し、舊名を眞倉坊(一に眞蔵坊に作る)と稱す、比治山町に在り、本尊は阿彌陀如来なり、開基教傳は武田刑部少輔信隆の末子にして、幼時に沙門に入り、時宗を修む、父信隆が佐東郡(今の安佐郡の内)金山の城主たりし時、同山の麓なる鴒田原の邸に居り、緇徒の身を以て、父の軍謀に與る、天文二年上京して本願寺十代證如上人に歸依し、遂に眞宗に改宗す、同五年二月二十六日後奈良天皇即位の大禮を擧げ給ひし時、教傳は武田氏の使臣となり、上京して之を奉賀す、後ち名を眞倉坊と改む、世に『武田の眞倉坊』と呼べり、金山落城の後ち、安北郡(今の安佐郡の内)上深川村に道場「眞倉坊」を營み、居ること二十七年にして、永禄七年十月寂す、教傳に二男・一女あり、長男を教順、次男を順清と云ひ、其の女を日和と名づく、日和は毛利氏の麾下飯田伊賀に嫁し、一子を生む、幼名猿松、後願西と改め禅學を修めて、京都東福寺に在り、而して母の日和は故ありて離縁し、尼となりて、妙正と號し、安南郡(今の安藝郡)牛牛田村神田に草庵を結びて、之に居れり、教順・順清は、父教傳の歿後、妙正の草庵に同棲せしが、永禄八年に至り、尾長村太蔵原に一宇を建立し、眞倉坊と稱し、教順を以て寺務を掌らしむ、即ち當寺の二代なり、同九年六月教順の寂するに及び、弟順清これに繼で寺務を執る、即ち三代なり、元龜二年四月寂す、因て妙正これを相續せしも、主僧なきが故に漸く衰微し、太蔵原に止りがたく、佐東郡高取村に移る、親戚のもの寺運の衰毀を歎き、願西を京都より招き、眞宗に改宗し、眞倉坊を再興せしむ、是に於て天正五年願西は本願寺顯如上人の徒弟となり、同年廣島に来り、今の堂宇を建立す、即ち四代なり、願西は石山の役に兵糧米千俵を本願寺に輸送して功あり、顯如上人は大に之を咸賞すといふ、六代宗傳に至り、眞倉坊を改めて廣寂寺と稱せり。(「廣島市史社寺史」より)
廣寂寺の周辺図
参考資料
- 「廣島縣史」
- 「廣島市史社寺史」