多聞院。広島県広島市南区にある真言宗寺院

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多聞院。広島県広島市南区にある真言宗寺院

多聞院の概要

真言宗寺院の多聞院は、吉祥山遍照寺と号します。多聞院の創建年代等は不詳ながら、高倉上皇が嚴島御幸に際し、後白河法皇御作の多聞天を安芸国司に命じて治承年中(1177-1181)に堂宇を建立させたと伝えられ、享禄年間(1528-1531)に雷火により堂宇焼失、天文年間(1532-1555)に毛利氏が高田郡吉田に再建、寺領15石を寄進したといいます。天正18年(1590)三瀧山の麓に移転、慶長9年(1604)福島氏の時当地へ移転したといいます。昭和20年の原爆投下に際し、鐘楼・十三塔は奇跡的に原爆による破壊を免れ、全壊した県庁に替わり県防空本部が置かれた他、比治山に逃げてきた多数の被爆者などに握り飯の配給を行ったといいます。広島県真言宗教団の準別格本山寺院です。広島新四国八十八ヶ所霊場第54番です。

多聞院
多聞院の概要
山号 吉祥山
院号 多聞院
寺号 遍照寺
本尊 毘沙門天・虚空蔵菩薩像
住所 広島市南区比治山町7−10
宗派 広島県真言宗教団
葬儀・墓地 -
備考 毘沙門天大祭:旧正月初寅の前日



多聞院の縁起

多聞院の創建年代等は不詳ながら、高倉上皇が嚴島御幸に際し、後白河法皇御作の多聞天を安芸国司に命じて治承年中(1177-1181)に堂宇を建立させたと伝えられ、享禄年間(1528-1531)に雷火により堂宇焼失、天文年間(1532-1555)に毛利氏が高田郡吉田に再建、寺領15石を寄進したといいます。天正18年(1590)三瀧山の麓に移転、慶長9年(1604)福島氏の時当地へ移転したといいます。昭和20年の原爆投下に際し、鐘楼・十三塔は奇跡的に原爆による破壊を免れ、全壊した県庁に替わり県防空本部が置かれた他、比治山に逃げてきた多数の被爆者などに握り飯の配給を行ったといいます。

境内掲示による多聞院の縁起

多聞院
毛利氏が郡山城下下吉田に建てた真言宗寺院である。広島城築城とともに三滝山麓に移され、さらにこの地に移されたのは慶長9年(1604)、福島氏の時代である。この寺の鐘楼、十三塔は奇跡的に原爆による破壊を免れている。
境内には、「日本外史」を著した頼山陽の一族の墓と儒学者で浅野藩に仕えた植田艮背の墓があり、いずれも県指定の史跡となっている。(境内掲示より)

境内掲示による多聞院の縁起

多聞院
毛利氏が郡山城下下吉田に建てた真言宗寺院である。広島城築城とともに三滝山麓に移され、さらにこの地に移されたのは慶長9年(1604)、福島氏の時代である。この寺の鐘楼、十三塔は奇跡的に原爆による破壊を免れている。
境内には、「日本外史」を著した頼山陽の一族の墓と儒学者で浅野藩に仕えた植田艮背の墓があり、いずれも県指定の史跡となっている。(境内掲示より)


「廣島縣史」による多聞院の縁起

吉祥山遍照寺(仁和寺末)
治承四年、高蔵天皇御宇創立、慶長九年俊惠中興、元は金剛吉祥如意寶珠山光明遍照寺多聞天王院と稱し、其後山號を寶珠山と改め、更に吉祥山と改めたりといふ、當時初、安藝郡穏渡浦にあり、天文中高田郡吉田に移り、天正十八年佐東郡新庄三瀧山下に轉し、慶長九年更に今の所に移る。(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による多聞院の縁起

多聞院
多聞院は、吉祥山・遍照寺と號す、比治山の西麓に在り、宗派寶勝院に同じ(古義眞言宗御室派)、元和五年の舊記には比治山多聞坊とあり、享保の頃までは山號寶珠山なりしが、一時は金剛吉祥如意山光明遍照寺多聞天王院と呼びけることもありといふ、當寺の傳ふる所に依れば、治承年中高倉上皇嚴島御幸の時、後白河法皇御作の多聞天(仙洞御所法住寺殿に安置ありしといふ)を携へ来らせ玉ひ、安藝の國司菅原在經に命じ、堂宇を安藝郡穏渡浦畑村に建て、其像を安置せしめ、道教上人を開基とし、本尊供修の料として、畑村・畑見村の二村を附せしめ給ふ、往古は兩帝の供養寶塔など其地にありしといふも、今は詳かならず、享禄年中雷火の爲め堂宇焼亡せしかば、天文年中高田郡吉田の庄大元社南の谷に移して堂舎を建て、毛利氏より寺領十五石を附せらる、後ち天正十八年沼田郡新庄村(今の安佐郡三篠町の内)三瀧山の麓に轉じ、慶長九年福島氏の時、更に今の地に移り、五人扶持幷に禄米十石を給せられ、主僧俊惠は別に米百石を賜はり寵遇殊に厚かりしが、福島氏貶謫の時、俊惠の徒弟宥惠が年少なるを以て、後事を不動院住持宥珍に託し、己れは其配所に至り、常に近侍して之を慰め、薨後尚留りて其冥福を修め、寛永七年三月を以て遂に其地に終れりといふ。當院に俊惠の墓あるも、逆修と記せるは之に依る。持佛堂に後白河・高倉兩院の尊牌及び毛利・福島の牌子を安置す、寺に古畫・佛像・曼荼羅の類を多く蔵す、又三篠小鍛冶宗近作の劔あり、福島氏の寄附せしものにて、其外函は明和中國老淺野氏これを寄附せり、第十六世住職圓暁は公共の事業に盡すの志深く、明治五年九月二十八日縣廳より長崎異宗徒拾名を委託せられ之を改心せしめ、且費用の一部をも自辨したるを以て賞與せられ、同四十四年六月一日には當院の客殿を再建し、其落成式を擧げたり。(「廣島市史社寺史」より)

多聞院の周辺図


参考資料

  • 「廣島市史社寺史」