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超覚寺。広島県広島市中区にある真宗大谷派寺院

超覚寺の概要

真宗大谷派寺院の超覚寺は、林鶯山憶西院と号します。超覚寺は、慈覚大師円仁を開基として紀州海士郡打越村に創建、寺領千石を有する天台宗の古刹だったといいます。当寺25世超仁清光が浄土真宗に改めて超覚寺と改号、伊勢国司北畠式部卿具親の子で当寺26世慶清が、本願寺願如上人の息女光姫を娶り、一寺と成したといいます。天正8年(1580)願如上人が石山合戦の後、城を織田信長に明け渡した後、当寺に逗留していたところ、信長の怒りをかい寺領を没収されてしまい、さらに慶長6年(1601)には罹災してしまったといいます。淺野氏が元和5年(1619)に広島へ移封する際慶清は、寺を嫡子玄清に譲って藩主浅野長晟に随従、浅野長晟の寵愛を受けて寺地・本堂を受領したといいます。

超覚寺
超覚寺の概要
山号 林鶯山
院号 憶西院
寺号 超覚寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 広島市中区八丁堀5−2
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



超覚寺の縁起

超覚寺は、慈覚大師円仁を開基として紀州海士郡打越村に創建、寺領千石を有する天台宗の古刹だったといいます。伊勢・尾張の国司北畠権中納言の二男で当寺25世超仁清光が浄土真宗に改めて超覚寺と改号、伊勢国司北畠式部卿具親の子で当寺26世慶清が、本願寺願如上人の息女光姫を娶り、一寺と成したといいます。天正8年(1580)願如上人が石山合戦の後、城を織田信長に明け渡した後、当寺に逗留していたところ、信長の怒りをかい寺領を没収されてしまい、さらに慶長6年(1601)には罹災してしまったといいます。淺野氏が元和5年(1619)に広島へ移封する際慶清は、寺を嫡子玄清に譲って藩主浅野長晟に随従、浅野長晟の寵愛を受けて寺地・本堂を受領したといいます。

「廣島市史」による超覚寺の縁起

超覺寺は林鶯山・憶西院(往昔從一位大納言北畠親房隠居の後ち紀州に遷り、當寺附近の山中に草庵を結び、林鶯軒億西院と名づけ、當寺の檀越と爲り、父師重の墓をも建立し給ひたれば、後ち當時二十六代慶清、同姓の故を以て、親房を追慕し、林鶯山・憶西院の號を用ゐしと云ふ)と號す、鐡砲町に在り、本尊は阿彌陀如来にして、仁壽元年慈覚大師、唐より歸朝後、紀伊國彌勒寺(當寺の前名)に来り、一刀三禮して自作せし尊像なりと傳ふ。往古は紀州海士郡打越村に在りて「彌勒寺」と稱し、僧圓仁(慈覺大師)を開基とし、寺領千石を有する天台宗の古刹なりしが、二十五代超仁清光(勢尾二州の國司北畠權中納言從三位源晴具の二男、母は細川右京大夫高國の女なり)或時親鸞上人の和讃を讀み、忽ち歸依の心を發し、遂に改宗して京都本願寺の末寺となり、寺號を超覺寺と改む、二十六代慶清(超仁高足の徒弟、伊勢國司前宰相北畠式部卿具親の子、母は神戸下總守具盛の女、超仁の甥なり)本願寺願如上人の息女光姫を娶る、是に於て一山悉く本願寺に屬せり、天正八年願如上人石山開城の後り、當寺に来り、暫く淹留せられければ、織田信長は大に怒り、寺領を悉く沒収す、後ち慶長六年罹災の時、堂塔殘らず灰燼に歸せしかば、同國湊といふ地の下屋敷に假居し、東派に屬せしが、元和五年淺野氏移封の時、慶清は其嫡子玄清を留めて、紀州の超覺寺(後ち長覺寺と改む)に住せしめ、自ら藩主長晟に随從して廣島に来り、寵眷頗る厚く、今の寺地及び本堂を賜ひ、金紋挟箱を用ゆるを許さる、寶暦三年十二月慶清より五代叩端の時、眞宗西派に轉じ、十代惠嶽の時、東派に復歸す、當寺は寶暦八年四月の大火に全寺類焼し、明和三年再建せしも、天明四年二月再び罹災し、爾来假建築なりしも、堂宇頽破せしに依り、文政七年十代惠嶽の時、本堂の大修繕及庫裡の再建をなし、明治四十三年三月十四代泰成の時、本堂を再建して落成せり、もとは釣鐘堂ありて、釣鐘は毛利輝元未だ吉田に在城の時、洞春院大居士(毛利元就)菩提の爲め洪鐘を鑄造し、同所洞春寺に納められ、廣島開府の後ち同寺を當地(今の廣瀬神社の地)に移されし時、其鐘も持ち来りしが、毛利氏長防二州に移封の際、洞春寺は随從して彼地に移りしも、同鐘は此地に殘し置かれ、福島氏の時これを「時の鐘」に用ひしを、淺野氏入國の後、元和九年杉田新兵衛の請に因り、藩主長晟より之を當寺に施さると寶永の申出書にも見え、天正五年の古鐘にて、比類少なき名鐘と稱せられしも、今は存せず、(「廣島市史」より)


いいお墓

超覚寺の周辺図


参考資料