普門寺。広島県広島市中区にある曹洞宗寺院
普門寺の概要
曹洞宗寺院の普門寺は、八屋山と号します。普門寺は、紀州から安芸へ移封となった浅野長晟が、広島藩入封準備を家臣小野覚雲(当寺開基)に命じ、長晟入封後に当地を拝領した小野覚雲が、元和7年(1621)邸内に洞門院と称し、海雲寺三世玄庵嫩鶴禅師を開山に迎えて創建したといいます。小野家が絶家となった後、寛永9年(1632)西尾平左衛門が西尾家の菩提寺とし、中興開基しています。明治維新後は、境内に救護所を設けて貧しい者に衣食を支給、自活をサポートし続けていたことから「普門寺救護所」とも呼ばれていたそうです。広島新四国八十八ヶ所霊場第69番です。
山号 | 八屋山 |
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院号 | - |
寺号 | 普門寺 |
本尊 | 正觀世音菩薩像 |
住所 | 広島市中区大手町3−5−5 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
普門寺の縁起
普門寺の創建年代等は不詳ながら、行基菩薩が行脚の折、天平12年(740)高田郡吉田町に建立した行基堂として開創したと伝えられ、毛利氏の代に、安佐郡三篠町へ、廣瀬へ再転し、福島正則の代の元和4年(1618)に当地へ移されたといいます。
「廣島縣史」による普門寺の縁起
普門寺
八屋山
天平十二年行基行脚して吉田に至り、觀音の像を得て、行基堂を立つ、毛利元就祈願所となし、二十貫の地を施す、後佐東郡打越村及廣瀬村に轉移し、元和中更に今の地に移る。舊稱觀音坊(「廣島縣史」より)
「廣島市史社寺史」による普門寺の縁起
普門寺
普門寺は八屋山と號す、曹洞宗にして、大手町七丁目にあり、往古は高田郡吉田町に在り、開基は天平十二年なりと云ふ、毛利氏の時、沼田郡打越村(今の安佐郡三篠町の内)に移され、又廣瀬村(今の廣瀬町)に轉じ、福島氏の時(元和四年)今の地に移轉建立せり、初め觀音坊といひしことは、次に載する古文書に依りて明なり、普門寺と唱ふるに至りたるは、今の地に建立の後なるべし、當寺も亦国泰寺三世十岫を以て開山と爲す、本尊は正觀世音菩薩なり、毛利氏時代以後藩侯の祈願所にして、毛利輝元の信仰殊に深かりしといふ、慶安四年の国泰寺記録に依れば、文禄四年六月十八日世子秀就誕生あり、之に依て廣瀬村に寺地を賜ひたりとあり、(以後省略)(「廣島市史社寺史」より)
普門寺の周辺図
参考資料
- 「廣島縣史」
- 「廣島市史社寺史」