興禅寺。広島県広島市中区にある臨済宗妙心寺派寺院

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興禅寺。広島県広島市中区にある臨済宗妙心寺派寺院

興禅寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の興禅寺は、海嶋山と号します。興禅寺の創建年代等は不詳ながら、永正年間(1504-1521)の頃から高田郡吉田町の郡山城の麓にあり、毛利輝元の広島城築城に伴い、文禄元年(1592)当地へ移転、尾張海國寺より招請した雲嶺永智禅師を開山とするといいます。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は萩へ移封となった際に、当寺は広島にとどまり、雲嶺禅師は、浅野長晟・光晟より御合力米として百石を受領、雲嶺が病床に臥した際には、浅野光晟自ら狩猟で得た鶏を雲嶺禅師に提供したといいます。広島新四国八十八ヶ所霊場第33番です。

興禅寺
興禅寺の概要
山号 海嶋山
院号 -
寺号 興禅寺
本尊 -
住所 広島市中区西平塚町10−11
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



興禅寺の縁起

興禅寺の創建年代等は不詳ながら、永正年間(1504-1521)の頃から高田郡吉田町の郡山城の麓にあり、毛利輝元の広島城築城に伴い、文禄元年(1592)当地へ移転、尾張海國寺より招請した雲嶺永智禅師を開山とするといいます。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は萩へ移封となった際に、当寺は広島にとどまり、雲嶺禅師は、浅野長晟・光晟より御合力米として百石を受領、雲嶺が病床に臥した際には、浅野光晟自ら狩猟で得た鶏を雲嶺禅師に提供したといいます。

境内掲示による興禅寺の縁起

海嶋山興禅寺
興禅寺は山号を海嶋山と称し、臨済宗妙心寺派に属し、四百有余年以前よりからの歴史を今に伝えている。
永正年代(一五〇〇)の頃から臨済宗の寺院として高田郡吉田町の郡山城の麓にあった。毛利家歴代(元就・隆元・輝元)の尊崇厚く、宗風大いに上がり支配下寺院六か寺を数える大寺となった。
時が経ち天正十九年(一五九一)輝元広島に城を構え移り、明くる年文禄元年(一五九二)興禅寺を現在地平塚に移した。
その後輝元が深く帰依された広島における開山雲嶺永智禅師を名古屋市の海国寺より請じ、臨済宗妙心寺派に属したのである。
慶長五年(一六〇〇)輝元萩に移りしも、広島の地に残り、福島時代となり他の臨済宗の寺院はほとんど萩に移るか、又は福島により改宗させられたり、廃寺となったが雲嶺禅師の徳により当寺のみが残ったのである。
浅野長晟が元和五年(一六一九)福島に代わり広島の藩主となりしも、雲嶺禅師に深く帰依され、それからは浅野家歴代藩主の信心ならびに庇護を受け宗風大いに上がり、末寺五か寺を有し広島で屈指の名刹に数えられた。
時はたち明治になり社会情勢の変転及び昭和二十年の原爆により堂宇寺宝記録等一切を焼失した(本堂横の鬼瓦は当時の面影を残す唯一のものである)が、昭和三十五年再建し以来広島において四百有余年の歴史を誇り今なを現在に至る。(境内掲示より)

「廣島縣史」による興禅寺の縁起

興禅寺
海島山無染院
文禄元年毛利輝元、吉田より移し、雲嶺を尾州宮澤海國寺より請して開祖とす。
(境内堂)
観音堂本尊の一准胝観音はもと安藝郡仁保村本浦観音寺本尊、千手観音はもと豊田郡小田村眞光寺本尊、明治七年兩寺廢寺に付、當寺に安置す(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による興禅寺の縁起

興禅寺
興禅寺は海島山と號す、宗派・本寺とも禅林寺に同じ、平塚町に在り、毛利氏の時、高田郡吉田より此地に移さる、本尊は釋迦如来なり、往古の開山は詳ならざるも、當地に於ては僧雲嶺を以て開山と爲せり、雲嶺は有徳の名僧にして、淺野但馬守長晟入封の初めより歸依淺からず、世人擧て信仰せりといふ、當時御合力米として百石を賜はる、寛永年中、廣島町大年寄松屋太郎右衛門の子を刑より救はんとして成らず、自ら己れの薄徳を責め、一夜竊に寺を脱し、行く所を知らず、後ち尾張國熱田に在ること知らるゝに及び、藩主光晟より親書を賜ひ、歸住を促がされしも、肯かず、後漸くにして歸復せり、雲嶺年老ひて病に臥す、醫師鶏肉の奇効あることを説く、雲嶺貧にして力辨ずる能はず、之を藩主光晟に請ふ、光晟乃ち駕を命じて猟を行ひ、其獲し所を賜ふ、雲嶺依て癒ゆることを得たり、當寺の前方は往古うんれい新開と唱ふ、此の僧の開きたる地なる歟「知新集」に雲嶺が慶安四年作る所の詩を載す、(詩文省略)(「廣島市史社寺史」より)


興禅寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」