萬行寺。広島県広島市中区にある真宗大谷派寺院

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萬行寺。広島県広島市中区にある真宗大谷派寺院

萬行寺の概要

真宗大谷派寺院の萬行寺は、昌光山と号します。萬行寺は、毛利家の家臣坪井玄蕃頭満行が毛利氏の使者として本願寺で顕如上人にしばしば謁見、天正5年(1577)毛利家を致仕して僧侶(祐傳)となり、毛利輝元から吉田に寺領を与えられ俗名から満行寺と号して創建、広島開府に際して自身と二男元徳を伴って広島に来住、吉田には長男祐善を残したといいます。慶長5年(1600)の毛利家の防長移封に際しては満行(祐傳)と長男祐善が随従、二男元徳(昌光)が当地に残り法燈を維持、福島氏より寺地を没収されたものの、元和5年の浅野氏入国後、山号を昌光山と公称、その後寺号を満行寺から萬行寺へ改めたといいます。

萬行寺
萬行寺の概要
山号 昌光山
院号 -
寺号 萬行寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 広島市中区東白島町19−1
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



萬行寺の縁起

萬行寺は、毛利家の家臣坪井玄蕃頭満行が毛利氏の使者として本願寺で顕如上人にしばしば謁見、天正5年(1577)毛利家を致仕して僧侶(祐傳)となり、毛利輝元から吉田に寺領を与えられ俗名から満行寺と号して創建、広島開府に際して自身と二男元徳を伴って広島に来住、吉田には長男祐善を残したといいます。慶長5年(1600)の毛利家の防長移封に際しては満行(祐傳)と長男祐善が随従、二男元徳(昌光)が当地に残り法燈を維持、福島氏より寺地を没収されたものの、元和5年の浅野氏入国後、山号を昌光山と公称、その後寺号を満行寺から萬行寺へ改めたといいます。

「廣島縣史」による萬行寺の縁起

(東白島町)萬行寺
天正五年二月念西(もと毛利家臣)開基、寶暦二年四月東派となる。(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による萬行寺の縁起

萬行寺
萬行寺は昌光山と號す、東白島町に在り、本尊は阿彌陀如来にして、僧玄徳の開基なり、玄徳の父を坪井玄蕃頭満行と云ふ、毛利氏の家臣にして禄五百石を領す、天正四年石山の役、毛利氏の爲めに屡々本願寺(當時眞宗未だ東西に分派せず)に使す、因て顕如上人に昵近する事を得、遂に沙門に歸依し、師弟の契りを結び、翌五年致仕して僧となる、毛利輝元より高田郡吉田町に於て寺地を賜はり、満行こゝに一宇を創建し、自己の諱を以て寺號とし「満行寺」と稱す、而して自から祐傳と改稱す、毛利氏より法衣料として三拾石を寄附せらる、廣島開府の後ち召に應じ、吉田なる満行寺を嫡子祐善に譲り、自ら二男玄徳と與に廣島に来り、地(東西七間南北二十間、位置何れか詳かならず)を賜ひ、小庵を結びて住す、慶長五年毛利氏防長二州に移封の時、祐傳・祐善の兩人は随從して彼の地に移り、元徳を止めて庵を護せしむ、福島氏の時、庵地を沒収して市坊と爲す、元和五年淺野氏入國に及で、始めて本堂を建立し、元徳の諱「昌光」を以て山號と爲す、後ち僧澤庵扁額を揮毫し「萬行」に作りたれば、爾来「萬行」の字を用ゆといふ。延寶三年罹災し、舊記幷に澤庵の扁額ともに焼失す、是時寛文十三年鑄造の釣鐘も亦罹災したれば、正徳三年五月十二日四代嶺春新鐘を鑄造す、寛延三年十一月五代貞温の時、東派に轉ず、六代諦應は學識博く、儒佛共に通じ、京都高倉學寮にて寮司となる。賦詩を好み、「日本詩遷」中に僧信海とあるは此僧なり、其詩に曰、
仲秋賞月海上
暁轉風颯々、尊盡露沾巾、月落鳥啼後、攝歸沙上人
九代秀導の時、明治五年九月二十八日縣廳より長崎異宗徒數名を委託せられ、指導盡力せるを以て賞與を受く、同六年八月十三日元安橋修繕の際、無賃渡船を差出したるを以て、縣廳より賞與あり、明治三十四年十代勱導の時、本堂の大修繕を爲せり。(「廣島市史社寺史」より)


萬行寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」
  • 「廣島市史社寺史」