専勝寺。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院

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専勝寺。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院

専勝寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の専勝寺は、法光山と号します。専勝寺は、石山合戦で戦功を重ねた真宗三門徒派本山専照寺の二男惠徳院明惠が、顕如上人の誘いにより浄土真宗西本願寺派になり、専稱寺を専勝寺とし、又毛利氏の誘いにより高田郡吉田に来て一宇を建立したといいます。天正17年(1589)広島の当地に移転、第4世正西は藩主淺野綱長の寵愛を受けた他、第7世義周の第2子慧雲は學僧として著名など、名僧を輩出していたといいます。

専勝寺
専勝寺の概要
山号 法光山
院号 -
寺号 専勝寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 広島市中区大手町2−1−17
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



専勝寺の縁起

専勝寺は、石山合戦で戦功を重ねた真宗三門徒派本山専照寺の二男惠徳院明惠が、顕如上人の誘いにより浄土真宗西本願寺派になり、専稱寺を専勝寺とし、又毛利氏の誘いにより高田郡吉田に来て一宇を建立したといいます。天正17年(1589)広島の当地に移転、第4世正西は藩主淺野綱長の寵愛を受けた他、第7世義周の第2子慧雲は學僧として著名など、名僧を輩出していたといいます。

「廣島縣史」による専勝寺の縁起

専勝寺
法光山
天正九年明惠(越前足羽郡専稱寺二男)毛利氏に縁故ありて、吉田に来り創立、同十七年今の地に移る。(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による専勝寺の縁起

専勝寺
専勝寺は法光山と號す、鹽屋町に在り、本尊は阿彌陀如来なり、もと眞宗本願寺派なりしが、中ごろ東派に屬し、後ち延享二年閏十二月西派に復す、昔時は惠法山と號せしが、後法光山と改む、貞享元年の釣鐘銘には「惠寶山」とあり、開基を惠徳院明惠といひ、越前國中野専稱寺の二男なり、抑々此専勝寺は眞宗五派中の一本山なりしが、石山合戦の時、明惠は衆徒を率ゐて本願寺を授け、大勝を得たり、是に依て顯如上人其戦功を賞し、遂に誘ひて己れの門派に入れ、「専稱」の字を「専勝」と改め、爾来これを用ひしむ、同時に毛利氏も亦本願寺を援助せしかば、明惠は其召に應じ、高田郡吉田に来りて、一宇を建立す、天正十七年廣島に移り、今の寺地に遷る、四代正西に至り、藩主淺野綱長の寵愛を受け、賜品甚だ多し、本堂も亦同藩主の寄附にかゝり、日向松數百本を取寄せ、再建せしめらる、延寶八年三月江戸参勤の時、正西に扈従を命ぜられ、途中其請ひを容れ、特使を京都の本山に遣し、親鸞繪傳四幅を得て之を寄附せらる、當寺随一の寶什となす、七代義周の第二子に有名なる學僧慧雲あり、其事蹟は報専坊の條中に述べたり、八代菊天は京都武者小路家の猶子にして、和歌・管絃を善くし、藩主淺野宗恒の殊寵あり、嘗同藩主の日通寺に於て管絃祭を催されし時、菊天は召されて、太平楽を拝聴して、(詩文省略)
と詠じ、又菊天は京都武者小路家にも親み深く、同家より菩提の爲めに櫻町天皇の御祷を内々寄附せられしことあり、明治二十九年本堂(桁行七間梁行六間半)同三十四年玄關(間口三間半奥行三間)を再建せり、(「廣島市史社寺史」より)


専勝寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」
  • 「廣島市史社寺史」