徳榮寺。広島県広島市中区にある真宗大谷派寺院
徳榮寺の概要
真宗大谷派寺院の徳榮寺は、早稲田山と号します。徳榮寺は、毛利氏の麾下三上土佐守の次男宮松が初陣で戦功を挙げ、高田郡麻原山麓に領地を与えられたものの、領地を整備中に怪我を負っていまったことから出家、「教信」となりその領地に麻原山光明坊を創建したといいます。天正15年(1587)に教信が没後、長兄の祐信は吉田への移転を経て広島に来たものの、毛利家に随従して萩へ移ったといいます。一方次男の休信は、吉田の光明坊を継いで麻原山徳榮寺と改称、その後休信の曾孫淳信が広島に来て、(麻原山徳榮寺を当地へ移す形にして)祐信が建立していた光明坊を明暦2年(1656)に中興したといいます。
山号 | 早稲田山 |
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院号 | - |
寺号 | 徳榮寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 広島市中区銀山町13−19 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
徳榮寺の縁起
徳榮寺は、毛利氏の麾下三上土佐守の次男宮松が初陣で戦功を挙げ、高田郡麻原山麓に領地を与えられたものの、領地を整備中に怪我を負っていまったことから出家、「教信」となりその領地に麻原山光明坊を創建したといいます。天正15年(1587)に教信が没後、長兄の祐信は吉田への移転を経て広島に来たものの、毛利家に随従して萩へ移ったといいます。一方次男の休信は、吉田の光明坊を継いで麻原山徳榮寺と改称、その後休信の曾孫淳信が広島に来て、(麻原山徳榮寺を当地へ移す形にして)祐信が建立していた光明坊を明暦2年(1656)に中興したといいます。
「廣島市史社寺史」による徳榮寺の縁起
徳榮寺は早稲田山と號す、銀山町に在り、本尊は阿彌陀如来なり、初め西本願寺の末派備後國三次郡上里邑字五日市照林坊の末寺にして、西派の觸頭を勤めし寺の一なりしが、寛延三年東派に轉ず、もと光明坊と稱し、中頃明泉寺と改め、後ち徳榮寺と改む、初め足利尊氏の臣宮下野守信胤は備後郡三上郡庄原を領し、本姓の宮を改めて三上氏と稱し數代を經て、三上土佐守(一名民部)に至り、毛利氏の麾下に隷屬す、土佐守の次子宮松(一に龜松に作る)雲州出陣の時、毛利元就に從ひ戰功あり、其賞として高田郡麻原山麓に方四町の地を賜ふ、宮松其樹木を伐採せんとして、樵夫と共に斧鍼を執りしに、誤て足を傷け躄となり、復た從軍すること能はず、元就より命じて僧となさしめ、照林坊の法弟と爲し、法名を教信(一名八体)と稱せしむ、是に於て襞きに與へられたる地に一寺を建て麻原山光明坊と號し、教信を開基と爲す、其本尊は毛利氏傳来の木造を寄附せられ、其鐘鼓は陣鐘・陣太鼓を寄附せらる(太鼓は長門國萩の光明坊に移して、今尚現存すといふ)天正十五年五月教信寂す、二子あり、祐信・休信といふ、兄の祐信は寺を吉田に移し、次で廣島に移る、慶長五年輝元防長二州に移封の時、随從して萩に抵り、光明坊を建立す(是時前の陣太鼓を持行く)弟休信は下小原邑より吉田に来り、光明坊を嗣ぎ、徳榮寺と改稱す、依て休信を以て開山となす、祐信萩に移りし後ち、持僧浄念なるもの明泉寺と改稱し、門徒を守護せしが、後休信の曾孫淳信當地に来り、當寺を中興し、初めて早稲田山徳榮寺と號し、吉田に在る徳榮寺には順西と云へる僧を看坊に殘し、夫より當寺の通寺と唱へ、數々往来して寺務を掌る、元文二年七代信淳の時、茅屋町(今の金屋町)蒟蒻屋五兵衛喚鐘を寄附す、今存せず、十代信誓俳諧を好み、俳號を世外と云ふ、明治三十一年十三代晃壽本堂を再建し、同三十八年八月日露戦役の時、「征露祝捷詩」を編纂し、同三十九年八月「凱旋餘光を編纂し、出征軍人及び海陸郡病院に寄贈し、殊に明治天皇の叡覧に供し奉れりと云ふ。(「廣島市史社寺史」より)
「廣島縣史」による徳榮寺の縁起
銀山町徳榮寺
早稲田山
開基教信、天文十四年高田郡小原村に一宇創立、光明坊といふ、後同郡吉田に移轉して、徳榮寺と號す、明暦二年吉田には順西といへる僧を置きて、今の地に移る、明治三十三年本堂改築、開祖教信は宮下野守信胤の裔、三上土佐守次男なり、教信に二子あり、嫡子祐信は吉田に移り、又廣島に来りて光明坊を創立す、祐信は後に毛利氏に從て、周防に移り、二男休信吉田の光明坊を繼き、麻原山徳永寺と改む、廣島光明坊の寺跡は、明泉寺居住せしか、慶安中焼亡せしより、明暦二年吉田の徳榮寺をここに移し、舊光明坊の址を相續せしものなりと云ふ、往古は、三次照林坊末西派の觸頭を勤むる寺なりしか、寛延三年より東方に屬す。(「廣島縣史」より)
徳榮寺の周辺図
参考資料
- 「廣島市史社寺史」
- 真宗大谷派 林鴬山 徳榮寺