洞門寺。広島県広島市中区にある曹洞宗寺院

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洞門寺。広島県広島市中区にある曹洞宗寺院

洞門寺の概要

曹洞宗寺院の洞門寺は、厳峰山と号します。洞門寺は、紀州から安芸へ移封となった浅野長晟が、広島藩入封準備を家臣小野覚雲(当寺開基)に命じ、長晟入封後に当地を拝領した小野覚雲が、元和7年(1621)邸内に洞門院と称し、海雲寺三世玄庵嫩鶴禅師を開山に迎えて創建したといいます。小野家が絶家となった後、寛永9年(1632)西尾平左衛門が西尾家の菩提寺とし、中興開基しています。明治維新後は、境内に救護所を設けて貧しい者に衣食を支給、自活をサポートし続けていたことから「洞門寺救護所」とも呼ばれていたそうです。

洞門寺
洞門寺の概要
山号 厳峰山
院号 -
寺号 洞門寺
本尊 阿弥陀如来坐像
住所 広島市中区西白島町16−27
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



洞門寺の縁起

洞門寺は、紀州から安芸へ移封となった浅野長晟が、広島藩入封準備を家臣小野覚雲(当寺開基)に命じ、長晟入封後に当地を拝領した小野覚雲が、元和7年(1621)邸内に洞門院と称し、海雲寺三世玄庵嫩鶴禅師を開山に迎えて創建したといいます。小野家が絶家となった後、寛永9年(1632)西尾平左衛門が西尾家の菩提寺とし、中興開基しています。明治維新後は、境内に救護所を設けて貧しい者に衣食を支給、自活をサポートし続けていたことから「洞門寺救護所」とも呼ばれていたそうです。

境内掲示による洞門寺の縁起

天正十七年(一五八九年)毛利輝元が、広島城築城を開始。二年後、輝元は、広島城主となる。慶長四年(一五九九年)頃、広島城が完成する。
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦い後、輝元は徳川幕府から減封の刑を受け周防・長門国(山口県)へ移封となり、長州藩の藩祖となる。
同年福島正則が、尾張国(愛知県)清州藩より入封。四十九万八千石を領し、広島藩の藩主となる。元和五年(一六一九年)正則は、徳川幕府から改易の刑を受け、高井・魚沼郡(長野県)へ移封となり、高井野藩の藩祖となる。
同年、紀伊・伊勢国(和歌山県)紀州藩藩主浅野長晟が、広島藩の藩主に確定する。当時、浅野家の家臣であった小野覚雲(当寺開基)は、長晟から、広島藩入封準備の任を命ぜられる。覚雲は、数名の家来を引連れ広島入りし、この地に有った茶屋(毛利輝元が広島城築城の際、外来客などを供応した建物)を使い、入封の準備を行う。同年、長晟が入封。四十二万六千石を領し、広島藩の藩主となる。覚雲は、これらの功績を賞され、その茶屋も合せ、千五百石を拝領し、この地(現在の当寺建立地)に小野家の屋敷を建立する。
元和七年(一六二一年)覚雲は、小野家の屋敷の一部を割いて当寺を建立し、洞門院と称する。玄庵嫩鶴禅師(海雲寺三世)を開山として迎え、覚雲を開基とし当寺を小野家の菩提寺として開創する。
寛永五年(一六二八年)当寺を厳峰山洞門寺と称する。
寛永七年(一六三〇年)覚雲が死去。その後、小野家は絶家となる。
寛永九年(一六三二年)当時、浅野家の家臣であった、西尾平左衛門を中興開基とし当寺を西尾家の菩提寺として継承していく。
明治四年(一八七一年)廃藩置県により、当寺を西尾家から民衆に開放する。(境内掲示より)

「廣島縣史」による洞門寺の縁起

洞門寺
厳峯山
元和五年覺雲(小野右大臣實資末葉)淺野家に随ひ来り、今の地に毛利家の茶屋ありしを賜ひ住す、寛永五年八月本堂建立、洞門寺と稱す。
(境内堂)地蔵堂、秋葉堂、鎮守堂(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による洞門寺の縁起

洞門寺
洞門寺は、巌峰山と號す、曹洞宗にして、西白島町に在り、海雲寺の末寺にて、本尊は観世音菩薩なり、當寺は、もと浅野氏入國の後、紀伊より来りける僧某の創建に係ることは、元和七年九月十七日の秘記に、
紀州被参候 町屋敷のうらわしあまし
一洞門院 西白島 禅とあるに依て明なり、而して境内藩士小野慶雲の石塔に誌るす所に依れば、同人は泉州樫ノ井の戰に功あり、秩千五百石を領し、屋敷地を此所に賜はり、其賜地の一部を分ちて當寺を建立せりと云ふ、今併せ考ふるに、初め某僧町屋敷裏に於ける邸地分割の殘地を賜ひ、之に慶雲が己が賜はりし地の一部を添へ施こしたりと見ゆ、依て慶雲を開基とし、開山は海雲寺三世玄庵と爲せり、此時より海雲寺の末寺となりし歟、もと當寺位牌に『開基勅賜大鑑惠光禅師照屋天良大和尚、慶長八年卯三月七日示寂』と記せるものあり、年代に稽ふるも、紀伊より来りし僧の、もと住みたる寺の開基位牌を持来りたるものなるべし、去れど此位牌は今所在を失へり、境内の地蔵堂(三尺四間)は明治二十五年に、秋葉堂(間口五尺奥行一間)は同参五年に新たに建設し、本堂と表門とは明治参五年に、庫裏は同四五年十月に大修繕を成せり、古鐘傳らず、今有る所の梵鐘は同四十一年の新鑄にかかる。
境内に救護所あり、明治十九年の春、當寺に十四世住職石橋、慈善の心深く、自力を以て市内の貧賤なる饑寡孤獨を集め、衣食を給し、自活の業を授け、薫陶せしに胚胎し、同二十五年本市の管理となり、爾来石橋は本市より委嘱を受けて之を担任せしが、同二十八年七月石橋歿して後、其寡婦は暫らく其事業を担任せしことあり、今尚ほ世に洞門寺救護所と稱せり。(「廣島市史社寺史」より)


洞門寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」
  • 「廣島市史社寺史」