禅林寺。広島県広島市中区にある臨済宗妙心寺派寺院

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禅林寺。広島県広島市中区にある臨済宗妙心寺派寺院

禅林寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の禅林寺は、萬松山と号します。禅林寺は、福島正則(法名海福院)が、熱田海國寺五世高巌を開山に迎えて創建したといいます。当寺3世虚櫺は、明国の黄檗山で学び、当寺住職となった名僧で、京都妙心寺内通玄院を開山、(黄檗宗の開祖)隠元禅師が日本に入国した際には共に江戸幕府四代将軍家綱に謁見したといいます。広島新四国八十八ヶ所霊場第66番です。

禅林寺
禅林寺の概要
山号 萬松山
院号 -
寺号 禅林寺
本尊 -
住所 広島市中区小町9−14
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



禅林寺の縁起

禅林寺は、福島正則(法名海福院)が、熱田海國寺五世高巌を開山に迎えて創建したといいます。当寺3世虚櫺は、明国の黄檗山で学び、当寺住職となった名僧で、京都妙心寺内通玄院を開山、(黄檗宗の開祖)隠元禅師が日本に入国した際には共に江戸幕府四代将軍家綱に謁見したといいます。

「廣島縣史」による禅林寺の縁起

禅林寺
萬松山
慶長五年、福島正則尾州熱田海國寺の僧高巌を請して、當寺を創立、禅林寺と號す、初は杉木小路にあり明暦大火の後今の所に移る、明治三十三年八月十九日暴風雨の爲に本堂仆る。(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による禅林寺の縁起

禅林寺
禅林寺は萬松山と號す、臨済宗にして、京都妙心寺の末寺なり、新川場町に在り、もと福島氏の時、福島正則(法名海福院)尾張國海國寺五世高巌を迎へて、當寺を創建し、高巌を開山となし、禄米四拾石幷に十人扶持を附す、初め國泰寺の裏通り(後世賴聿庵の宅地となる)に在り、中頃(承應以前)立町の西側に移り、後(天和以前)今の地に移りたるは寛永・承應・天和の各繪圖及び元禄頃の舊記に依りて知らる、一説に立町に在りしは當寺の本堂にあらずして、懸持家又は隠居所の類か、されば國泰寺裏通りより直に今の地に移りたるにもあらんと云へども詳ならず、三世虚櫺は其ころ世に聞ゆる名僧にして、天下三老の一と稱せらる、嘗て年壮にして入唐し黄檗山に學び、歸朝の後、當寺に住せり、四代将軍家綱の黄檗山僧隠元を志那より招致するに方り、特に虚櫺をして之を長崎へ迎へしむ、虚櫺は素と隠元と相識る、乃ち共に携へて将軍に見ゆ、後藩士寺西織部、通玄院を京都妙心寺内に創立し、虚櫺を開山とし、天和二年又た尾長山の別墅石泉亭内に通玄堂を起し、復た虚櫺を以て開山となす、元禄四年八月虚櫺九十一歳を以て京都の通玄院に寂す、明治二十四年尾長村(今の尾長町)に第五師團練兵場の設置あるに當り、地を官に納れ、亭と堂を與に廢するに至れり、當寺の本堂は明治四十二年五月五日の再建にして、本尊は舊に依りて釋迦如来を安置す、胎内に後醍醐天皇随身の佛舎利を蔵せりと傳ふ。(「廣島市史社寺史」より)


禅林寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」