大避神社。赤穂市坂越の神社
大避神社の概要
大避神社は、赤穂市坂越にある神社です。大避神社の創建年代等は不詳ながら、秦河勝が赤穂の地を領有していたことから、聖徳太子没後に蘇我馬子・入鹿が実権を握り、聖徳太子と親しかった秦河勝は戦を避けるために当地に隠棲、戦を避けるため「大避」神社と称されたとも、酒を斎き祀ったことから大酒(避)神社と称されたともいいます。当初は生島に鎮座していたものがいつの頃からか当地へ遷座、後冷泉天皇の天喜3年(1053-1058)には正二位の神階を授けられたと伝えられます。歴代赤穂藩主も崇敬したほか、熊本藩細川家も参勤交代に際して当社に参拝したといいます。明治維新後は、明治6年郷社に列格、大正10年には県社に昇格しています。
社号 | 大避神社 |
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祭神 | 秦河勝(大避大神) |
相殿 | 天照皇大神・春日大神 |
境内社 | 天満神社、新宮、荒神社、稲荷神社、恵美須神社 |
祭日 | 夏祭7月、例祭10月 |
住所 | 赤穂市坂越1299 |
備考 | - |
大避神社の由緒
大避神社の創建年代等は不詳ながら、秦河勝が赤穂の地を領有していたことから、聖徳太子没後に蘇我馬子・入鹿が実権を握り、聖徳太子と親しかった秦河勝は戦を避けるために当地に隠棲、戦を避けるため「大避」神社と称されたとも、酒を斎き祀ったことから大酒(避)神社と称されたともいいます。当初は生島に鎮座していたものがいつの頃からか当地へ遷座、後冷泉天皇の天喜3年(1053-1058)には正二位の神階を授けられたと伝えられます。歴代赤穂藩主も崇敬したほか、熊本藩細川家も参勤交代に際して当社に参拝したといいます。明治維新後は、明治6年郷社に列格、大正10年には県社に昇格しています。
境内掲示による大避神社の由緒
大避神社
この神社は、遠い昔から坂越の海と人とを見守り続けてきました。祀られている秦河勝は、飛鳥時代に聖徳太子とともに政治にあたりました。聖徳太子の死後、秦河勝は坂越へ移り住み、千種川沿いを開拓したと伝えられています。又、秦河勝は能楽(鎌倉時代の演劇)の守り神としても知られ、神社には古い舞楽面が残されています。(境内掲示より)
「赤穂義士史跡めぐり」による大避神社の由緒
祭神は秦河勝・天照皇大神・春日大神である。神社の創立期は明らかではないが、養和元(1182)年には有力な神社であったという。本殿は明和6(1769)年に再建されたもので、絵馬堂には40余りの絵馬が掲げられている。
秋に行なわれる祭礼、船祭りは平成4(1992)年国の選択無形文化財となっている。(「赤穂義士史跡めぐり」より)
「兵庫県神社誌」による大避神社の由緒
縣社大避神社
鎮座地 坂越村坂越字宮本
天照皇大神、大避大神、春日大神(調書ニハ大避大神ヲ秦河勝ト記ス)
祭神大避大神は秦河勝と傳へ秦氏が赤穂郡を領有せし關係上河勝此地に歸幽し其靈を祀り併せて其祖酒公を斎き祀りしより大酒神社と稱し更に後ちに大避に轉じたるものなりといひ初め坂越の南二丁を隔りたる海中の一孤島なる生島に鎮座せしを何時の頃にか此地に移したり後り河勝の子孫なる赤穂大兩秦造の氏神となり更に降って後冷泉天皇の天喜三年正二位を授けらると傳へ明和五年下遷宮同六年正遷宮を奉仕して本殿を再建す延享三年拝殿を再興し文化十年八月四日御室御所より幣帛料を寄進せらる又舊赤穂藩主も代々當社を崇敬し毎年の祭典には必ず参詣して幣帛料を供進したり殊に現存の日出に舞鶴の繪馬は藩公の記銘なきも其奉納にかゝはる事は記録に徴して明なり殊に舊熊本藩主細川侯も江戸に参勤の節は必ず坂越湊に碇舶して當社に参拝するを例とせしかば現今に至るも遠く九州廣島より東上の船舶は坂越に入港して當社に参拝するを例とす明治六年十一月郷社に列し大正十年八月縣社に昇格す
異説
「神社調書」舊傳によれば秦河勝國家に功努ありしも曽我入鹿の妬みに遭ひ難を蒙らん事を恐れて領地たる此地に住して其害を避けたるにより社名を生ずと
【明治神社誌料】創建ハ第五天皇延喜年間ナリ(「兵庫県神社誌」より)
大避神社所蔵の文化財
- 祭禮用和船楽船(兵庫県有形民俗文化財)
- 船祭り(国の選択無形文化財)
祭禮用和船楽船
この船は国選択無形民俗文化財「船渡渡御」に使用されたものです。楽人が乗って雅楽を奏でた。現在では復元船が使用されている。祭礼船12隻の中でこの船だけが屋形をもつ。
渡御に際しては内部に二畳を敷き、幟・吹き流し幕・艦暖簾提灯で艤装される。
大避神社と雅楽の関係は深く、祭神を祖と仰ぐ雅楽家には、東儀・岡・薗・林の四家があり、雅楽を伝承活躍されている。(境内掲示より)
大避神社の周辺図
参考資料
- 赤穂義士史跡めぐり(財団法人赤穂市文化振興財団刊行)
- 「兵庫県神社誌」