赤穂八幡宮。赤穂市尾崎の神社

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赤穂八幡宮。赤穂市尾崎の神社

赤穂八幡宮の概要

赤穂八幡宮は、赤穂市尾崎にある神社です。赤穂八幡宮は、神功皇后が三韓征伐より凱旋の帰途に際して赤穂御崎山の麓に船を留め、この地を宝崎と名付けたこと、また当地が石清水八幡宮の社領であったことにより(神功皇后の皇子応神天皇を祀る)石清水八幡宮を勧請して赤穂郡真木村に鎮座したといいます。応永13年(1406)長楽寺の宝寿坊が神託を受けて当地に遷座、代々領主の崇敬を受け、赤穂城主浅野長直よりは正保2年社領30石の寄附を受けていました。明治7年郷社に列格、大正11年県社に昇格しました。

赤穂八幡宮
赤穂八幡宮の概要
社号 八幡宮
祭神 應神天皇
相殿 仲哀天皇、神攻皇后
境内社 三光神社、稲荷社
祭日 -
住所 赤穂市尾崎203
備考 -



赤穂八幡宮の由緒

赤穂八幡宮は、神功皇后が三韓征伐より凱旋の帰途に際して赤穂御崎山の麓に船を留め、この地を宝崎と名付けたこと、また当地が石清水八幡宮の社領であったことにより(神功皇后の皇子応神天皇を祀る)石清水八幡宮を勧請して赤穂郡真木村に鎮座したといいます。応永13年(1406)長楽寺の宝寿坊が神託を受けて当地に遷座、代々領主の崇敬を受け、赤穂城主浅野長直よりは正保2年社領30石の寄附を受けていました。明治7年郷社に列格、大正11年県社に昇格しました。

「赤穂義士史跡めぐり」による赤穂八幡宮の由緒

八幡宮
5世紀初めの仲哀天皇、応神天皇、神功皇后をまつる八幡宮は、浅野家および赤穂南部一帯の氏神である。
浅野家とのつながりが深く、初代長直より蔵米15石を受け、延宝7年(1679)に長矩が造営を始め、元禄元年(1688)みこしなどを製作し、礼式を起こし大社となった。
義士の遺物も多く、大石良雄がかいた布袋額、良雄寄進の馬鞍と神酒徳利、岡嶋八十右衛門の書、原惣右衛門や近藤正純の手紙などが秘蔵されている。拝殿の後ろには良雄が建てた石どうろうが残っている。(「赤穂義士史跡めぐり」より)

「兵庫県神社誌」による赤穂八幡宮の由緒

縣社八幡神社
昔神功皇后三韓より凱旋の際御船を赤穂の御崎山の麓に寄せ給ひ此地を寶崎と請ふ故に右由緒により皇后の皇子品陀別命(應神天皇)を祀る石清水八幡宮の分霊を勧請して同郡眞木村に鎮座せり其後後小松天皇應永十三年小山の長楽寺寶壽坊等神託に感じて今の地に遷せり赤穂庄は後ち坂越庄と改めらる之より先元暦二年正月九日源賴朝當社鎮座の赤穂庄は石清水別當護國寺領として武士の濫妨狼藉を停めたれば當時赤穂庄の鎮守として仰がれしものならむ降って慶長年間池田輝政高十石餘の物成を納め松平政綱、同輝政領主となりて高十一石を毎年村方納めとなし寛永年間輝敬は一反三畝九歩の永代燈明料田を寄進せり同十五年拝殿を再建し正保二年淺野長直赤穂城主とあるに及んで赤松氏累代鎮護赤穂庄地主神として格別の崇敬を捧げられ社領五石を増加し高三十石を寄附せられ延寶七年本殿を再興せらる爾来淺野家三代の崇敬を受け沒落後新規赤穂城主より前代同様の社領を寄せられ正徳五年社殿修復に端を發して坂越浦を氏子たるや否やにつきて紛爭あり次いで享保三年本殿を造立し明治七年二月(明治六年十一月とも)郷社に列せられ大正十一年五月縣社に昇格す(「赤穂郡史」より)


赤穂八幡宮の周辺図


参考資料