龍野神社。たつの市龍野町の神社
龍野神社の概要
龍野神社は、たつの市龍野町にある神社です。龍野神社は、龍野藩主脇坂安宅が藩邸敷地内に、自身の祖である賤ケ岳七本鎗で知られる脇坂安治公を文久2年(1862)に祀り創建したといいます。明治7年郷社に列格、明治8年龍野神社と改称したといいます。境内の能見宿彌神社は、相撲の祖である能見宿彌が故郷の出雲へ帰る途上、当地で逝去したことに因んで祀られています。
社号 | 龍野神社 |
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祭神 | 建安治主命 |
合祀社 | 能見宿彌神社、玉嶋稲荷社 |
末社 | 城山八幡宮、粟嶋神、水天宮 |
祭日 | 例祭4月 |
住所 | たつの市龍野町中霞城2 |
備考 | - |
龍野神社の由緒
龍野神社は、龍野藩主脇坂安宅が藩邸敷地内に、自身の祖である賤ケ岳七本鎗で知られる脇坂安治公を文久2年(1862)に祀り創建したといいます。明治7年郷社に列格、明治8年龍野神社と改称したといいます。
境内掲示による龍野神社の由緒
龍野神社
龍野神社は一八六二年(文久二年)、龍野藩主脇坂安宅が藩邸敷地内に建安治主神(脇坂家の祖で豊臣秀吉の副将であり、賤ケ岳七本鎗の一人として知られる脇坂甚内安治公)を祀り、脇坂家の廟社であった。廃藩置県後の明治八年(一八七五)九月、一般神社とひとしい郷社(神社の資格)に列せられた。安治公は滋賀県湖北町出身で、これが縁で龍野市は同町と友好提携都市を締結した。
例祭は四月五日から十一日までの間の日曜日に行い、神輿の前後に甲冑武者・子供武者ら総勢三百余人が、威風堂々と行列をつくって、城下町を練り歩く光景は、すこぶる壮観であり、数万人の観光客でにぎわう。(龍野町史談会掲示より)
「兵庫県神社誌」による龍野神社の由緒
郷社龍野神社
鎮座地 龍野町龍野字中霞城
祭神 建安治主命
由緒
龍野藩主脇坂安董文化八年に小祠を作り祖神安治主命を祀り武安治公靈或は建安治主大明神と仰ぎ其子安宅父の心を繼ぎ文久元年官に乞ひて安治主命を崇めて神として祭り垂裕大明神と曰ひ建安治城命を崇めて祠を芝口の上野に建つ翌文久二年龍野邸内の地を卜し本殿拝殿を新築し更に安董安置の神像を鎮斎せり次いで脇坂安斐に至りて廢藩置縣の爲め居を東京に移さむとして神社をも東に遷座せんとせしかば明治七年龍野町幷に北龍野及び樋山(日山)村の人々協議して當地に之を置かんことを乞ひ許されて更に境内を擴張し社殿を修理せり此年郷社に列せらるといふ猶ほ同年二月垂裕神社と稱し翌八年四月龍野神社と改稱し神號を建安治主命と稱せり(龍野神社縁起。文化八年記)烈祖臨松公。の尊像一套先君在日の日京師隣花院に在す所をうつし刻みて東都の芝邸に安置し給ひし也しかるにこの都や祝融の災殊に甚しければ常に不慮の變有らんを憂ふること深し戎今茲鮮人接對の御便を蒙り對馬の國に赴く折から密に供奉し龍城に至りし日を卜して東光山に安置し奉り自ら祭奠し發心院に命して永く守護の別當たらしむ(「兵庫県神社誌」より)
龍野神社の周辺図
参考資料
- 「兵庫県神社誌」