厨川稲荷神社。盛岡市稲荷町の神社

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厨川稲荷神社。源頼義が戦勝祈願

厨川稲荷神社の概要

厨川稲荷神社は、盛岡市稲荷町にある神社です。厨川稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、源頼義が康平5年(1062)の厨川柵の戦に際して、大舘地内荒屋にあったという稲荷祠に戦勝を祈願したといいます。文治5年(1189)奥州合戦により岩手郡を与えられた伊豆の工藤小次郎行光は、栗谷川氏として立家、社殿を建立して崇敬したといいます。江戸期には南部藩より元禄2年(1689)に社領二石六斗八升を受領、明治維新後には明治5年に村社に列格していました。

厨川稲荷神社
厨川稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
相殿 -
境内社 -
祭日 9月9日
住所 盛岡市稲荷町6-1
備考 -



厨川稲荷神社の由緒

厨川稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、源頼義が康平5年(1062)の厨川柵の戦に際して、大舘地内荒屋にあったという稲荷祠に戦勝を祈願したといいます。文治5年(1189)奥州合戦により岩手郡を与えられた伊豆の工藤小次郎行光は、栗谷川氏として立家、社殿を建立して崇敬したといいます。江戸期には南部藩より元禄2年(1689)に社領二石六斗八升を受領、明治維新後には明治5年に村社に列格していました。

「岩手県神社名鑑」による厨川稲荷神社の由緒

鎮守府将軍源頼義・義家が、康平年中(一〇五八-一〇六四)安倍貞任・宗任征伐の勅命により下向の際、厨川の柵に討入りの時、附近に稲荷の祠があるのを知り、先ずこの神に祈願をこめて遂に柵を破る。その後、鳥羽天皇の文治年中(一一八五-一一八九)頼朝の幕下工藤小次郎行光が現在の地に移し社殿を建立した。(「岩手県神社名鑑」より)

境内掲示による厨川稲荷神社の由緒

創建不詳なるも、天喜四年(一〇五六)前九年の役が起こった。陸奥守鎮守府将軍源頼義軍は陸奥の豪族安倍氏と厨川柵で最後の対決をするところとなりこの地に陣して、大舘地内荒屋の稲荷の祠に戦勝を祈願して安倍貞任軍を破ることが出来た。
文治五年(一一八九)源頼朝は奥州藤原泰衡討伐の軍を起こして平泉を攻め落とし厨川柵に進駐して父祖八幡太郎義家の偉業を偲び、功臣伊豆の工藤小次郎行光にこの地岩手の郡を与えた。工藤氏は栗谷川氏を称して新たにこの地に社殿を建立して由緒ある荒屋の稲荷を勧請して代々崇敬するに至った。
江戸時代になって延宝三年(一六七五)第三代藩主南部重信公は社殿を改築元禄二年(一六八九)には社領二石六斗八升を寄進している。次いで宝永二年(一七〇五)第五代信恩公は拝殿を建立、更に享保十年(一七二五)第六代利幹公は社殿を修復するなど歴代領主の崇敬の厚い神社であった。明治五年六月村社に列せられた経緯がある。(境内掲示より)


厨川稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「岩手県神社名鑑」