盛岡天満宮。花垣館と呼ばれていた当地に鎮座
盛岡天満宮の概要
盛岡天満宮は、盛岡市新庄町にある神社です。盛岡天満宮の創建年代等は不詳ながら、南部氏が三戸に本拠を置いていた頃から祀っていたのではないかと想像され、盛岡城築城当初は四ッ家と寺町の間に社があったといいます。幾度かの遷座を経て、延宝7年(1679)花垣館と呼ばれていた当地に遷座、「新庄のおでんっあん」と称されているといいます。
社号 | 天満宮 |
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祭神 | 菅原道真公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 7月25・26日 |
住所 | 盛岡市新庄町5-32 |
備考 | - |
盛岡天満宮の由緒
盛岡天満宮の創建年代等は不詳ながら、南部氏が三戸に本拠を置いていた頃から祀っていたのではないかと想像され、盛岡城築城当初は四ッ家と寺町の間に社があったといいます。幾度かの遷座を経て、延宝7年(1679)花垣館と呼ばれていた当地に遷座、「新庄のおでんっあん」と称されているといいます。
「岩手県神社名鑑」による盛岡天満宮の由緒
本社は筑前太宰府天満宮を勧請し奉る古社である。(「岩手県神社名鑑」より)
境内掲示による盛岡天満宮の由緒
盛岡八幡宮の創祀はさだかでないが、盛岡城築城当初は四ッ家と寺町の間に社があったという。南部氏が三戸時代から祀っていたと思われる。
その後、寛永二年(一六二五)に紙町川下町裏大手堀の上、現在の上ノ橋右岸。緑の広場辺に奉遷、次いで寛文六年(一六六六)笹森やま(現八幡宮)に再遷、更に延宝七年(一六七九)新八幡宮造営のため、新庄村花垣館と呼ばれし清き処に鎮め今日に至っている。
その管理運営は隣地にあった安楽寺に委託されたが、明治初年に発布された廃仏毀釈・神仏分離令によって廃寺になるまで約二百年間維持されてきたが、廃藩置県後は管理責任者のないままに荒廃しつつあった。
こうした折明治七年、盛岡の豪商糸治第六代当主中村治兵衛氏をはじめ袰岩重兵衛、大志田勇八氏等によって建替え寄進された。造営の棟梁は穀町の太田善右エ門で、周囲の杉木立によく調和し趣のある雅な造りである。
その後中村家累代及び明治三十五年創立された盛岡菅公会会員の定形協力によって維持され、年々祭祀を営み、菅公の遺徳顕彰、神域の整備をはかるなど社会文化活動の拠点として、また「新庄のおでんっあん」と呼び親しまれ現在に至っている。(盛岡菅公会掲示より)
盛岡天満宮の周辺図
参考資料
- 「岩手県神社名鑑」