志賀理和気神社。紫波郡紫波町の神社

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志賀理和気神社。延暦23年(804)に創建、延喜式内社

志賀理和気神社の概要

志賀理和気神社は、紫波郡紫波町にある神社です。志賀理和気神社は、坂上田村麻呂が東北開拓の守護神として延暦23年(804)に創建、「貞観式」や「延喜式」にも記載される古社です。その後源義家が社殿を建立、斯波氏・南部氏らも尊崇、斯波孫三郎詮は、川底にある赤石を見て、斯波郡を紫波郡と改めたと伝えられます。明治4年郷社に列格、大正13年県社に昇格していました。

志賀理和気神社
志賀理和気神社の概要
社号 志賀理和気神社
祭神 経津主之大神、武甕槌之大神、猿田彦之大神、保食之大神、少彦名之大神、大己貴之大神、船霊之大神
相殿 -
境内社 小野藤稲荷社、坂下稲荷社、赤石天満宮
祭日 9月第一金土日曜日
住所 紫波郡紫波町桜町字本町川原1
備考 -



志賀理和気神社の由緒

志賀理和気神社は、坂上田村麻呂が東北開拓の守護神として延暦23年(804)に創建、「貞観式」や「延喜式」にも記載される古社です。その後源義家が社殿を建立、斯波氏・南部氏らも尊崇、斯波孫三郎詮は、川底にある赤石を見て、斯波郡を紫波郡と改めたと伝えられます。明治4年郷社に列格、大正13年県社に昇格していました。

境内掲示による志賀理和気神社の由緒

桓武天皇の御代延暦二十三年(八〇四)、坂上田村麻呂が東北開拓の守護神として、武神である経津主命と武甕槌命を勧請したことが当社、志賀理和気神社のはじまりです。
当神社は平安時代の文献「延喜式 内の神名巻に社名が記載されております。『延喜式』の神名巻には三、一三二座の神社名が記載されており、それらの神社を延喜式内社といいますが、当神社は数ある延喜式内社のなかで日本最北に位置しております。また『延喜式』に先立つ『貞観式』においても、仁寿二年(八五二)の条に当神社に関する記載があり、このとき当神社は文徳天皇より正五位下の神格を賜りました。
前九一年の役においては源義家による堂宇建立がなされ、藤原秀衡の時代には藤原氏の支族である樋爪太郎俊衡、同五郎季衡らの崇敬を受けたことが伝えられております。
樋爪氏につづき、室町時代には足利氏の支族斯波氏の崇敬を受け、戦国時代に斯波氏を討った南部氏よりも当神社は庇護されておりました。戦国時代末期の領主南部重直公は当神社に「南部一の宮」の称号を献じ、江戸時代には藩主南部利視公が
御社はとまれかくまれ志賀理和気 我が十郡の国のみをさき
と詠じ、北は八戸から南は和賀の境までの南部十郡において第一に重きをなされました。以来、南部氏の累代藩主は当神社の祭礼盛行や社殿造営、社殿炎上に対する社殿再建に努められ、光林寺を別当に定めて社僧を置かしめるなどの保護がなされました。
明治には社格制度のもと四年に郷社、大正十三年には懸社に列し、現在は岩手県神社庁指定の一級社です。
当神社は北上川の西岸に位置しており、窪地になっているにもかかわらず昔から大洪水に遭遇しても溢水せず地震にも震蕩しないことから「浮島明神」とも呼ばれております。また、かつて北上川の舟運が盛んであった頃当神社は船方衆の信仰の拠り所とされていたことから「志賀理和気船霊神社」とも呼ばれます。(志賀理和気神社栞より)

「明治神社誌料」にまつわる明治天皇勅使差遣

志賀理和気神社
(村大字字上耕地の山腹に鎮座す)大化二年九月二十八日の創立にして熊野大神日枝大神を勧請す、清和天皇の御宇皆川村小野口字八幡澤に八幡大神を勧請したりしか、其地不浄なる事ありし故光孝天皇の御宇當社に合祀す、醍醐天皇の時左大臣忠平勅により國内の神社を調査す、當社其選に加はり、夫れより延喜式内志賀理和気神社と稱せり、藤原秀郷将門を滅して七十貫文を納めて神饌料とし守護神と崇めて厚く尊信せり、後鳥羽天皇の文治二年當村領主前司太郎藤原通綱讒せられ、頼朝の疑ふ所となりしかば石清水八幡宮に参詣して其冤罪の雪がれんことを祈り、神水を竹筒に容れて之れを持ち帰り、社殿西北隅の岩石に注ぎしに清水滾れ出づ今に石清水と稱し如何なる旱魃にも水の涸るることなし、又本殿左方の柱に飛騨の國人甚五郎の作と稱する瓜の彫刻あり、往事時到れば青色を呈したりと云ふ、神殿拝殿は特別保護の建造物として指定さる(「明治神社誌料」より)


志賀理和気神社所蔵の文化財

  • 「紫波」発祥の赤石

「紫波」発祥の赤石

「紫波」発祥の赤石
当神社には「紫波」や「赤石」などの地名の由来となった霊石「赤石」をお祀りしております。
室町時代、当地の領主新波孫三郎詮直公が当神社の背後を流れる北上川で遊覧していた際、川底にある赤い大石に気付かれました。その石の赤さをうつし、北上川の波が紫色に輝く様に感動された詮直公は、その美しさを
けふよりは紫波と名づけん この川の石にうつ波むらさきに似て
と詠じて以来、この地を「紫波」と定めたと言うことです。(志賀理和気神社栞より)

志賀理和気神社の周辺図


参考資料

  • 「明治神社誌料」