観自在王院跡。奥州藤原氏二代基衡の妻が建立、世界遺産
観自在王院跡の概要
観自在王院跡は、平泉町平泉志羅山にある名所旧跡です。観自在王院跡は、奥州藤原氏二代基衡の妻が建立、1573年に焼失したと伝えられる観自在王院の跡です。焼失の後は水田になっていたものを、昭和29年(1954)から発掘調査が開始され、昭和54年(1979)境内の全域が史跡公園として整備されました。境内は、大阿弥陀堂跡、小阿弥陀堂跡・舞鶴ヶ池・牛車を止めた車宿跡などからなり、12世紀(平安時代)の浄土庭園(浄土を具体的に表現した寺院庭園)の優れた事例だとされ、世界遺産「平泉」の構成遺産に含まれています。
名称 | 観自在王院跡 |
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みどころ | 浄土庭園の遺構 |
区分 | 世界遺産 |
住所 | 平泉町平泉志羅山 |
備考 | - |
観自在王院跡の由緒
観自在王院跡は、奥州藤原氏二代基衡の妻が建立、1573年に焼失したと伝えられる観自在王院の跡です。焼失の後は水田になっていたものを、昭和29年(1954)から発掘調査が開始され、昭和54年(1979)境内の全域が史跡公園として整備されました。境内は、大阿弥陀堂跡、小阿弥陀堂跡・舞鶴ヶ池・牛車を止めた車宿跡などからなり、12世紀(平安時代)の浄土庭園(浄土を具体的に表現した寺院庭園)の優れた事例だとされ、世界遺産「平泉」の構成遺産に含まれています。
「岩手県町村誌」による観自在王院跡の由緒
(平泉村)
▲大阿彌陀堂
観自在王院と號す、常行堂の東にあり、本尊は運慶作の阿彌陀如来にして内陣組入天井金を毘多打となす、四壁の圖繪は洛陽の霊地名所なり、元亀三年三月八日焼失し本尊僅に其災を免る此堂は基衡室の建立する所なるを以て今に至るも同室葬儀に例を襲ひ年々四月二十日に供養をなす世俗之を泣き祭りといふ。
▲小阿彌陀堂
大阿彌陀堂の東にあり、運慶作の彌陀を安置せしなり、堂中の色紙形は参議教長卿の筆蹟なり、此堂に並びて普賢堂五重塔鐘樓等の趾あり
▲基衡室墓
小小阿彌陀堂趾の後にあり、霊屋は荒廢し後年建る處の石碑表面に前鎮守府将軍基衡安倍宗任女墓仁平二年辛年四月二十日と勤す。
▲舞鶴池
阿彌陀堂の前にあり池中に島を築き鐡塔を安置す、今は荒廃して田となり飾石を存す。(「岩手県町村誌」より)
境内掲示による観自在王院跡の由緒
観自在王院跡
観自在王院は、藤原基衡(1105-1157)の妻により建立された寺院です。1573年に焼失したと伝えられ、17世紀には境内の大半が水田として使われるようになりました。
昭和29年(1954)から始まった発掘調査により、大・小2棟の阿弥陀堂を含む複数の建物や浄土庭園の遺構などが確認され、12世紀の様相が明らかになりました。
昭和54年(1979)境内の全域が史跡公園として整備されています。大阿弥陀堂跡、小阿弥陀堂跡前方の池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、石組・州浜・中島などがほぼ完全な状態で残されており、当時の作庭技法を理解する上で貴重です。
舞鶴ヶ池を中心とする旧観自在王院庭園は、12世紀(平安時代)の浄土庭園すなわち「浄土を具体的に表現した寺院庭園」の優れた事例として高く評価されています。
観自在王院跡は、平成23年(2011)に「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の構成遺産として世界遺産登録されました。(国土交通省観光庁掲示より)
境内掲示による観自在王院庭園について
旧観自在王院庭園
観自在王院は、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に奥州藤原氏二代基衡の妻が建立した寺院と記されている。西隣に特別名勝毛越寺庭園、舞鶴が池の北方には史跡金鶏山、南隣に高屋と推定される大型建物跡が発見された倉町遺跡がある。舞鶴が池は修復整備され、大阿弥陀堂・小阿弥陀堂・鐘楼・普賢堂跡の礎石が往時の伽藍を今に伝えている。発掘調査で西辺土塁・西門・南門が発見され、伽藍は東西120m、南北240mの土塁で囲まれていたと推定される。また、観自在王院西辺南北土塁と毛越寺東辺南北土塁の間は全面玉石敷きで、牛車を止めた車宿跡も見つかっている。
昭和48年から53年度にかけて史跡の修復整備が行われ、現在の姿が再現された。日本庭園史上でも価値が高く、「旧観自在王院庭園」として名勝に指定された。(境内掲示より)
観自在王院跡の周辺図
参考資料
- 「岩手県町村誌」