一関城跡・高崎城跡・釣山公園。一関市釣山の名所旧跡

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一関城跡・高崎城跡・釣山公園。坂上田村麻呂の所縁の地

一関城跡・高崎城跡・釣山公園の概要

一関城跡・高崎城跡・釣山公園は、一関市釣山にある名所旧跡です。当地釣山(篠見山・御館山)は丘陵で近隣を見通せることから、軍事上の要塞として利用され、古くは坂上田村麻呂が高崎城と称し、源頼義・義家は篠見山と称して布陣、戦国時代には葛西氏の家臣小野寺道照が居城していたといいます。江戸時代に入り仙台藩が、坂上田村麻呂の子孫にあたる田村家の名跡を再興する形で一関藩を立藩、城は築かず麓に陣屋を置いていたといいます。明治維新後には釣山公園として整備され、城柵の遺構なども調査されています。

一関城跡・高崎城跡・釣山公園
一関城跡・高崎城跡・釣山公園の概要
名称 一関城跡・高崎城跡・釣山公園(岩手公園)
みどころ -
区分 国指定史跡
住所 一関市釣山1
備考 -



一関城跡・高崎城跡・釣山公園の由緒

当地釣山(篠見山・御館山)は丘陵で近隣を見通せることから、軍事上の要塞として利用され、古くは坂上田村麻呂が高崎城と称し、源頼義・義家は篠見山と称して布陣、戦国時代には葛西氏の家臣小野寺道照が居城していたといいます。江戸時代に入り仙台藩が、坂上田村麻呂の子孫にあたる田村家の名跡を再興する形で一関藩を立藩、城は築かず麓に陣屋を置いていたといいます。明治維新後には釣山公園として整備され、城柵の遺構なども調査されています。

境内掲示による釣山公園の由緒

釣山公園の歴史
ここ釣山は大自然の営みから生まれた丘陵で、古くから道行く人々の目印でした。
一関藩校初代学頭の関元龍の著した「関邑略史」によると、釣山は古代から軍事上の要塞であり、高崎城とも篠見山とも呼ばれています。
〇征夷大将軍 坂上田村麻呂の陣地(大同年中)
〇安倍貞任弟 磐井五郎家任の砦(天喜年中)
〇源頼義、義家親子の篠見山の陣地(康平年中)
〇葛西氏家臣 小野寺道照の居城(天正年中)
以上が中世まで釣山に関わった人物と伝わり、葛西氏の滅亡に伴い伊達氏の支配となり、一関城に伊達政宗の叔父・伊達(留守)政景が移ってきました。
江戸時代にあって、仙台藩のうち三万石が文封され、「一関藩」がうまれ、最初の藩主は伊達政宗の十男の伊達兵部宗勝でしたが、伊達騒動(寛文事件)で土佐に配流になり、一時仙台藩領に戻りました。
その後、天和二年(一六八二)岩沼から伊達家分家の田村建顕公が一関藩主として移封され、以後明治維新に至るまで十一代の歴代藩主が治めました。田村氏の居城は現在裁判所のある城内で、一関城下絵図にも範囲が描かれています。釣山は田村氏の居館を見下ろす高所に位置するので、誰彼と入れる場所ではありませんでした。
一関藩となってからの釣山は、その山中に、山王社、稲荷社、松樹堂(孔子の聖廟)が勧請され、藩主自らが祭祀を行っておりました。今では井戸や稲荷社が残り、近代に偉業を成した人々の顕彰碑や田村家累代の事蹟の紹介碑もあり、桜の名所としても整備されています。
釣山頂上には千畳敷と呼ばれる平坦地があり、その下には日本庭園などが公園として整備されています。日本庭園の北側にある四阿や千畳敷から見る眺望は素晴らしく、磐井川を眼下にし、市内全域ほか北上平野、蘭海山、観音山、烏兎が森、さらには栗駒山、束稲山、室根山の展望が広がります。
ここは市民公園です。道ぞいの様々な植物を楽しみながら、ごゆっくり散策を楽しんで下さい。(境内掲示より)

境内掲示による一関城跡の由緒

一関城跡遺構柵について
釣山(一関城跡)については、これまで小規模な内容確認調査を実施し、公園整備との調和を図っている。概ね確実な事蹟となると葛西氏の属臣の居城であった戦国時代末期以降のものとなる。この展望の開ける場所では、溝に柱穴が伴う柵列と考えられる遺構が現在地表面下1M程のところで検出され、防御施設が整備されていたことが判明している。またこの地に戦国末期を裏付ける遺物として菊花紋の美濃焼陶器が検出されており、中世山城としての存在は確実である。葛西氏没落後、伊達氏の支配となり、政宗の叔父である留守政景の居城となったが、以後城としての機能を持たないまま藩政時代の田村氏の所領となった。(境内掲示より)

境内掲示による一関城跡の由緒

田村家居館跡
天和2年(1682)、田村建顕が仙台藩の支藩一関藩3万石の大名として入部しました。その際に築造された居館は、古来の館や堀は使わず城の構えに見えないようにと江戸幕府から指示があり、釣山の北東側に簡単な堀と白壁を巡らせた形としました。内部は、西側が田村家の生活する場所として、東側が一関藩の政治を行う場所として主に使用されていました。なお、この場所は居館の西端にあたります。
明治4年(1871)、一関県が成立した際には県庁として利用されましたが、それまであった建物は取り壊されたり払い下げられたりしていきました。明治9年(1876)に岩手県へ編入されてからは、裁判所や郡役所などが置かれました。現在は、盛岡地方裁判所一関支部などがあり、また一関市城内として地名が残っています。(境内掲示より)

「岩手県町村誌」による一関城跡・高崎城跡・釣山公園の由緒

(一關町)
高崎城址
一に篠見山又釣山俗に御館山といふ西北磐井川に臨み斷崖數十仭南は新山に聯なる絶頂の平坦なる所を千畳敷と稱す、大同年中坂上田村麿将軍此處に營し高崎城と號す天喜年中安倍貞任の弟岩井五郎家任之に據る、康平中源賴義父子之に屯し篠見山の陣と稱す、天正年中葛西の麾下小野寺道照之に居る、慶長中伊達上野介政景(水澤留守家)寛文中伊達宗勝同宗房居る、天和二年田村隠岐守建顯此に移り之より田村氏累代の居城として明治維新に至る。田村氏初め漢の靈帝劉宏の裔上刈田麿子田村麿を陸奥の田村荘に生む、田村麿蝦夷の征服功多し、第三子浄野陸奥出羽按察使となる、子内野陸奥に居る内野の孫古哲田村氏と稱す、子孫世々田村荘司たり、古哲の裔輝顯右京太夫たり北畠親房に屬し南朝に仕へて勲績あり天平十七年三月二十六日歿す、一族能く節を守る孫満顯三春城に居る、子孫傳領して清顯に至る、清顯の母は伊達植宗の女にして清顯の女は政宗の室となる、清顯の子宗顯天正十八年豊臣秀吉に從ふことの遅かりしを以て罰せられて累代の領地を失ひ且宗顯十九歳にて歿し田村氏の統絶ゆ、伊達政宗の孫宗良其家を再興し萬治三年伊達氏の所領の内三萬石を分ち與へられて大名に列し岩沼に居る、天和二年建顯一の關に移る、爾後代々其地を領して明治維新の際東北十七藩の同盟に加はり所領を削らる尋て版籍を奉還し華族に列し子爵を給はる、菩提所は芝高輪東禅寺なり、(「岩手県町村誌」より)


一関城跡・高崎城跡・釣山公園の周辺図


参考資料

  • 「岩手県町村誌」