盛岡城跡公園。盛岡市内丸の名所旧跡

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盛岡城跡公園。36年かけて築城した盛岡城の跡地

盛岡城跡公園の概要

盛岡城跡公園は、盛岡市内丸にある名所旧跡です。盛岡城跡公園は、盛岡藩初代藩主が盛岡城築城を決定し、36年かけて築城した盛岡城の城跡を、明治39年(1906)に長岡安平の設計により整備された公園です。廃藩置県後の明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年には内曲輪の建物の大半が壊され、建造物はのこされていませんが、数多くの桜が植樹され、毎年春には桜まつりが開催されています。

盛岡城跡公園
盛岡城跡公園の概要
名称 盛岡城跡公園(岩手公園)
みどころ -
区分 国指定史跡
住所 盛岡市内丸1
備考 -



盛岡城跡公園の由緒

盛岡城跡公園は、盛岡藩初代藩主が盛岡城築城を決定し、36年かけて築城した盛岡城の城跡を、明治39年(1906)に長岡安平の設計により整備された公園です。廃藩置県後の明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年には内曲輪の建物の大半が壊され、建造物はのこされていませんが、数多くの桜が植樹され、毎年春には桜まつりが開催されています。

境内掲示による盛岡城跡公園の由緒

国指定史跡 盛岡城跡
盛岡市内丸1番地ほか
盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)が配置されています。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。
盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。(境内掲示より)


盛岡城跡公園の周辺図


参考資料

  • 「岩手県町村誌」